『311・語り場』宮城県からのマリアさんの巻(前編)

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2013年7月11日に開催された『311・語り場』は、札幌市「さぽーとほっと基金」の助成を受けて行われました。皆様の貴重なご寄付を遣わせていただき、本当にありがとうございました。

 

7/11。『311・語り場』で宮城県から母子避難しているマリアさん(仮名)が語って下さいました。
その内容のまとめができましたので、どうぞご覧ください!

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第7回目になった『311・語り場』。今回の語り手は、宮城県から母子避難してきた、ふんわりと優しい笑顔のマリアさん(仮名)です。

初めて司会進行を担当した道民サポーターのあやこさんからの紹介のあと、コーディネーター兼、語りの相方役をつとめるひさ子さんは、
「コーディネーターなんて初めてで準備は忙しかったけれど、とても満たされて、充実した毎日でした。」と今回の語り場にかける熱い思いを語ってくれました。

マリアさんは、宮城県石巻生まれ石巻育ち、結婚して仙台市の近くに新居を構えました。福島第一原子力発電所から約100㎞の場所です。

家族は、当時4年生と年長の娘さん2人、夫、義母との5人暮らし。
震災の2年前に内装デザインをする夫と、大工出身である夫の弟とともに、商業施設(洋服・飲食)などのお店やその家具を作る会社を起こし、マリアさんは経理を担当していました。

【震災当日~一か月後のことから、語りがスタートしました】
旧会社
(この事務所の2階で311を経験しました)

「3月11日、夫は宇都宮に3時に行くので、工場に戻ってきていました。宮城県は地震が多く、震度3~4程度ならしょっちゅうなので、最初はそれほどとは思わなかったのですが、なかなか収まらず、揺れが続いて。。。」

マリアさんは事務所の2階で仕事していましたが、逃げようと階段を下りている途中に揺れで階段が外れ、地面に弾き飛ばされてしまいました。
幸いにも?下にいた大工さんの上にふわりと着地し、右足の骨にひびが入りましたが、それ以外に大きなけがはなかったそうです。
激しい揺れで電子レンジが吹っ飛んできましたが、落ちる前に夫がはねのけてくれたので、大事故に至らず、木材が倒れて山積みになっているところを乗越えて、命からがら脱出しました。
「本当に、命からがら、という感じでした」
思い出しながら語るマリアさん。

_旧会社
(震度6の揺れの中、この階段から落ち、右足の骨にひびが入りました)

一緒に働いていた大工さんは、家族を迎えに行こうと車を出したものの大渋滞に巻き込まれ、歩道の脇を走り抜けてなんとか津波もまぬがれることができました。

「子どもの安否はすぐに確認できたのですが、塩釜に越していた実家は父が不在で、母がひとりで自宅にいることが心配で。」
電話も通じないし、車で行くにしても途中トンネルを通るのが危険。
そんな状況で夫が別のルートから救助に行ってくれましたが、行ってみたら母は二階の寝室のベッドの上で真っ暗の中一人座っていたそうです。
「そのときの母の心境を思うと…」マリアさんの瞳に涙がにじみます。

幸いにも自宅に被害はほとんどなかったそうですが、災害ダイヤルが全然つながらず、お姉さんの安否も心配されたそう。
でもお姉さん夫婦は、帰路の途上、路肩に車を停めて一夜を明かしたあと自宅で合流できました。

「本当に、紙一重のところでした。町を見ると、国道45号線をへだてて、片方(海側)は地獄、片側は天国。自分の住んでいる場所は何も被害がなかったけれど、そのギャップがすごかったです。」
津波被害の大きかった町ならでは苦悩が、このときから始まります。

「その後1か月の間、避難してきた夫の弟家族と12人で一緒に過ごしました。放射能について知らせてくれる人もいたけれど、気を配る余裕などなく。『水が来た』って声をきくと、子供たちが大五郎のボトルを持って給水車に並んだり。食べることで精いっぱいでした。」

放射能については、「福島県と宮城県の間に、見えない壁があるかのように、こちらは大丈夫だと安心感を持っていました。」

復旧してきたと思った4月7日、また震度6の地震がありました。
電気と水がストップし、その地震で事務所のプレハブが使えなくなってしまいました。
「被災しても関東や九州など全国各地からの注文が来ていたし、4人の従業員も守らなければならない」と考え、新しい事務所と工場を探しました。

幸い、車で5分の場所に倉庫兼事務所を借りることができ、5月9日に引越ししたそうです。

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(引っ越しした新しい工場)

その頃にFMでよく流れていた、熊谷育美さんの『雲の遥か』というマリアさん思い出の曲を、みんなで聞きました。

~『雲の遥か』 熊谷育美~

田んぼを見渡して
故郷と思い合わせた
電車に揺られながら
窓越しに記憶を辿る

あの頃は夢に溢れて
一本道しかなかったけれど
あの頃に夢見た今は
うまくいかないことだらけで

もしも弱音を吐いたなら
昔のように叱ってほしい
負けるな、と
負けるな、と
強く抱きしめて受け止めて

涙を流すのは
哀しい時だけじゃないと
教えてくれた日が
惨めなほど懐かしくて

今 僕は夢に迷って
二手に分かれる道の前で
拳をぎゅっと握りしめるけど
逃げたいです 挫けそうです

もしも弱音を聴いたなら
昔のように笑ってほしい
何も言わず
何も言わず
優しい顔で味方して

明日に向かう途中
故郷の風 頬なでた
坂道をのぼって
雲の遥か あなたが見えた

「宮城県内は1212箇所の避難所があり、まだ仮設住宅もない頃で、みんなで肩寄せ合って生きていました。家族を失った人、家を流された人など過酷な状況の方がいる中、自分は自宅も家族も無事だったから、ちょっとのことで弱音を吐けなかった。
この曲の歌詞の『もしも弱音を吐いたなら』という言葉に、とても気持が救われました。」

~続きます~

(7/11 『311・語り場』の様子)
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