冬の晴れ間の12月11日、札幌市内の会場で、かなえさんの語り場が行われました。参加者は48名と大盛況でした。

札幌市さぽーとほっと基金(東日本大震災被災者支援活動基金)
「東京から避難」とHP上で告知した結果、「チーム☆OKのイベントに来ること自体初めて」という関東からの避難者が3名も、遠方から参加してくれました(ドキドキしながら来て下さったようです)。
メンバーからも関東避難組が多く、10名以上集まりました。
また、近所の幼稚園のママたちも話を聞きに来てくれて、なごやかな雰囲気の中でのスタートとなりました。
自己紹介や挨拶のあと、かなえさんの語りがはじまりました。
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【311後、葛藤の日々】
震災当時、夫と子ども2人(1歳と3歳)の4人で東京で暮らしていました。
地震当日は揺れましたが、原発が爆発したとき東京の人々はふだんと同じ生活をしていました。
爆発の数日後、東京の水が汚染され「0歳の子どもは水道水を飲まないように」という通達が出され、お店に水を買いに行ったら売切れていました。
0歳の子どものいる家庭にはペットボトルが配られましたが、3月半ばに1歳の誕生日を迎えたので、3月末の水の配布は「1歳になっているから」ともらえませんでした。
その後子どもたちは咳がひどくなり、私は3日間声が出なくなり、上の子はめまいを起こしました。
何かおかしいと思っていたとき、「東京は危ないから避難しておいで」と海外の友達が言ってくれましたが、赤ちゃんを抱えていくことはできず、4月に上の子が幼稚園に入園し、幼稚園生活もはじまりました。
みんな普通に生活しているなか、それでも危険だと思う自分はおかしいのかと悩みましたが、
山本太郎さんの「東京も汚染されている」と訴える動画を見て、改めて「そうなんだ」と思いました。
実は、私は子どもが生まれる前、原子力関連のメーカーで働いていました。
日本は資源のない国だから原子力は夢のエネルギー、そこで働けることに誇りをもっていました。
チェルノブイリの事故は欠陥のある施設だから起きたこと、日本の技術なら大丈夫だと思っていました。
それが3月12日の東京新聞の一面は原子力発電所の爆発の写真でした。
信じられなかったし、恐ろしくてたまらなくなりました。
海外の友人からは「NHKとCNNの報道の内容が全然違う、子どもの体が心配だ」と言われ、夫に相談してみたものの、
「自分だけ助かればいいのか。仙台のお母さんも被災地でがんばっているのに、ひとりだけ助かろうとするなんてできない」と言われ、自分が恥ずかしくなりました。
でも子どもたちはどんどん体調が悪くなり、思い切って仙台の母に相談したら、初めて聞く話が返ってきました。
【仙台に暮らす実母の言葉 ~命を守ろうとする直感は正しい~】
母はこう言いました。
「親戚が私を養子にほしいと望んだけど、母が断った。
その直後、空襲でその親戚は亡くなった。
もし私が養子に出されていたら死んでいただろう。
命を守ろうとする直感は正しいと思う。
でもあなたの一存ではダメ。夫婦でよく調べて選択しなさい」と。
それから夫との話し合いの日々がはじまりました。
答えの見えないぶつかりあいの末、最後には答えを、震災前にお腹で亡くなった子どもが教えてくれました。
命にまさる大事なものはないと。
そして夫婦で避難の決意を固めました。
決断後、夫の両親に避難したいと資料を持って話に行きましたが、
「近所の人たちが普通に生活しているのに、どうしてそんなことを言うの?
気にしすぎるから子どもたちは病気になる」と言われました。
その後「おかしくなった嫁のおかげで息子と孫が危ない」と言っていると聞きました。
それを聞いて私は、
「個人で考え、個人で感じることを忘れていく。
多数の主観を取りまとめたもので、自分の価値観を形成してしまう。それはとても怖いことだ」
と思いました。
「家族の言うことより、新聞・テレビを信じるのか・・・。マスメディアに負けた」
と思いました。
その話を聞いたある親戚が
「命を大切にするあなたたちの考えに賛成する。
でもあなたたちの両親も、あなたたちを命をかけて守ってきてくれた。
時代が違って守り方が違うだけ。
だから、親を捨てるのではなく、子どもを守りに行ってきます、と胸を張って行ってきなさい」
と話してくれました。

【インドネシアに滞在後、札幌へ避難】
その後、どこに避難しようかと考え、インドネシアに行きましたが、赤痢にかかるなど衛生環境や治安や教育に不安を感じ、やはり日本で暮らそうと帰ってきました。
その後、インターネットで、「関東からの避難者も無料で受け入れをしている団地が札幌にある」と知り申し込みました。
そのとき、ネット上の掲示板で、団地の情報を親切に書き込みしてくれていたのが、いまのチームOKのキャプテンです。
(ここでキャプテン談)
「北海道は遠いから、みんな下見ナシで避難せざるを得なかったんです。
送られてきた書類で部屋の間取りだけ見て、いきなり来ないといけなかった。
だから、カーテンのサイズやら、お風呂の風呂穴が2つだからジャバは2つ穴用がいいよ、とかね(笑)
管理人さんに問い合わせたことを教え合ったり、先に来た人が教えたり、情報を共有してたんですよね。懐かしいな~」。
海外から帰国したとたん、家族みんな熱を出し咳が出て。
北海道に来る前日に、娘が熱性けいれんをおこしていたのですが、そのまま40度の熱のある娘を飛行機に乗せて来道しました。
北海道に来てしばらくは、東京から家族で来ていることに申し訳なさや引け目を感じて、東京から来たと言えず、引きこもりがちでした。。。
そんなとき知り合った、神奈川から同じ団地に避難してきていた友達からキャプテンにつながり、友達の輪が広がりました。

【SAVEかなえ ~本当の支えあい~】
2012年の秋、私が急病で入院することになりました。
夫は入ったばかりの会社を休むこともできず、ふたりの子どもをどうしたらいいか困りました。
じじばばや親戚は、ここにはいません。
それを知った、宮城から2人の子と母子避難の友人が、うちの子ども2人を預かると言ってくれました。
「退院してくるまで、4人の子どものお母さんになろう」と思ってくれたそうです。
ただでさえ大変な、母子避難なのに・・・その気持ちがどれだけうれしかったことか。
でも、それを聞いたキャプテンが、
「ひとりで抱えたらつぶれてしまう。みんなでやろう」と『SAVEかなえ』(笑)プロジェクトを立ち上げました。
私に「かなえちゃんの頼れる友達は誰?」と聞き、その友人たちに一斉に、
「入院中のかなえさんを助けるメーリングリストを作ります。参加したい人だけ登録して下さい!
自分が大変な人は無理しないように!」と呼びかけました。
その気持ちに応えて登録してくれた避難仲間が8名。
私からの要望や指示はキャプテンが受け、それをもとにキャプテンがMLに流す、という仕組みでした。
「明日お子さんを幼稚園に送りに行ける人はいますか?」
「今夜パパが帰るまでお子さんをあずかれる人いますか?」。。。
こうして、複数の友人家族で順番に子どもたちの面倒を見てくれました。
ご飯を食べさせ、お風呂に入れ、遊び相手になり、みんなで支えてくれたのです。
これまでの生きてきた中で、身内でもない方にこんなに助けてもらうことは初めてでした。
これこそ無償の本物の愛、本物の支え合いだと思いました。
避難で何もかも失ってきたと思っていた私に、「絶対になくさない宝物」をくれました。
そしてそのとき「親が健康でなければ大切ないのちを守れない」と痛感しました。

【青い女になろう! ~伝えるという使命に気づいた日~】
今年7月に酪農大学でキャプテンの講演があり、私も聞きに行きました。
そのときキャプテンは、400名の学生に向かって、ボロボロ泣きながら・・・「命を大事にしてください」と訴えていました。
「7/2 酪農学園大学・礼拝でお話しました」
「ここは泊原発から60キロしか離れていない」
「もし皆さんの人生で同じことが起こったら、今日の青いシャツのオバサンが言っていたことを思い出して、すぐ逃げてください」
「いつか、青い女が言ってたな・・・未来ある皆さんにそう思い出してもらえたら、私は幸いです」。

そのキャプテンの鬼気迫る姿が、私には「青い女神」に見え、とても感銘を受けました。
そのとき私は、「本当は青い女になりたかったんだ」と自分の心に気付きました。
みんな、かけがえのない命だということ、それを訴えていきたいと思ったのです。
その後、子どもの通う幼稚園で、ひとりのお母さんに原発や避難について話をしたら、「こういう話を聞きたかった」と言ってもらえました。
それがきっかけとなり、友達や園長先生の協力のもと、幼稚園での語り場を開催することができました。
2年前、私が住む避難者の団地に山本太郎さんが来られたとき
「太郎さんの呼びかけで避難することができました」とお礼を言ったら、
「これから皆さんができることは、『避難してきた経験を伝えること』です。それが恩返しになります」
と言われました。
でもそのときは、自分が避難者だってことさえ言えないのに無理だと思いました。
でも今、こうして、伝えることができるようになったと感じています。

【風立ちぬ ~きなくさい時代~】
今年の夏、7年ぶりに映画を見ました。『風立ちぬ』という宮崎駿監督の作品です。
宮崎監督の言葉を、みんなで読みたいと思います。
「きなくさい時代
時代のゆがみのなかで、夢は変形され、苦悩は解決せずに生きていかねばならない。
その運命は、実は現代の世界に生きる自分たちとのものではないか。
力を尽くして生きる、精一杯生きる
時間がない
どういうふうに生きるのか
どういうふうに生きたのか
覚悟を決める
時代に翻弄されながら飛行機を造った堀越二郎
たふる限りの力を尽くして生きる
人が生きていくっていう
力を尽くして生きなさい
自分たちにあたえられた
自分たちの範囲で
自分たちの時代に
たふる限りの力を尽くして生きるしかない」
堀越治朗の飛行機の技術は戦争経済に利用され、平和主義だったアインシュタインの作った核の技術は原爆に利用されました。もうそんなことはやめてほしいと願います。
これからも私たちは生きていかないといけない。
その中でも成長し続けていかないといけない。私も成長したい。
前から思っていたのですが、日本は島国だから動きにくいのではないかと。
でもこれからの子どもたちには、狭い日本の中だけでなく、大陸的な視野で、いろいろな文化や考え方を見て知って感じて欲しいと思っています。
命が大切、健康を損なうことは地獄。
きなくさい時代だけど、これからは、力を尽くし、みなさんと手をつなぎ、ともに歩いていきたいと思います。
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かなえさんの語りのあと、かなえさんが感想を聞きたい方を指名して、感想をお聞きしました。
まず、かなえさんと同じく東京から、岩見沢市に家族・親族と避難してきたRさん。
チーム☆OKのパパさんです。

「今日は、同じ東京からのかなえさんの語り場と聞いて、どうしても来たかったんです。
福島から大変な思いをしてきてる方がいる中、
東京から家族で・・・避難って言えないんですよね。僕も。
だからもう、ただ東京から引っ越してきました、でいいかな、って思ったり。
でも嘘はいけない。つらさは人それぞれですよね。
こうやって少しづつでもいいから知ってもらうこと、それによって生きやすくなると思いました。」
と感想を話してくれました。
いつもは人を笑わせるのが得意な明るいRさんが、こらえきれずに、涙ながらに語る姿は、たくさんのママたちの涙を誘いました。
チーム☆OKのイベントに初参加のSさん。
千葉県から母子で避難してきていましたが、避難者が集まるところに来たのは初めてだったそうです。
かなえさんが勇気を出してHP上で開催情報をオープンにしたため、Sさんは語り場に来ることができました。
「東京から、と書いてあったので参加しました。
ここに来るまでにたくさんの葛藤がありました。。。今日のかなえさんの話に勇気づけられました。」
と涙ながらに語ってくれました。

かなえさんと同じ幼稚園のYさんは
「生まれも育ちも札幌で、何も分かってなかった。
思い出せば『東京からだったよね。東京っていいとこだよね』と避難して来てる方に軽々しく話しかけてしまったり。。。
どんな思いでここに来られたのかと、考えると申し訳なく思いました。
前向きな姿に勇気をもらいます」と話してくれました。
そこでキャプテンが
「東京、いいとこですよね、って話しかけられて、かなえさん嬉しかったと思いますよ。
(うん、とうなずくかなえさん)
必ずしも、軽々しく話しちゃいけない、なんてことはないです。
関心を持ってくれること、その話題に触れてくれること・・・それだけで嬉しいし、ありがたいんですよ。」
と、温かいエールを送りました。

なかなか理解されにくい、関東からの原発避難。
でも、かなえさんが勇気を出して語ってくれたことで、たくさんの人がその過酷さを知ることができたのです。
そして、命と健康を第一に選んで避難したかなえさんの語りを、共感と応援の気持ちで聞いてくれる道民がこんなにもいることが、わかりました。
その事実に、聞きに来たメンバー(避難者)が、驚きと勇気をもらったのでした。
勇気を出して語ってくれたかなえさんに、会場全員からの「ありがとうございました」で幕を下ろしました。
かなえさん、「伝える女神」という大役を果たしましたね。おつかれさまでした!
『OK☆募金』にご協力ください ~『311・語り場』を続けるために~
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札幌市さぽーとほっと基金(東日本大震災被災者支援活動基金)
2013年12月11日に開催された『311・語り場』は、札幌市「さぽーとほっと基金」の助成を受けて行われました。皆様の貴重なご寄付を遣わせていただき、本当にありがとうございます。
札幌市「さぽーとほっと基金」のホームページはこちらです
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