【語り場】「情報統制がもう始まったんだ」と思った・・・~小河原美保子さん(福島県中通りから避難)の語り場・全文掲載~

第8回 311語り場(2013年9月27日)~福島県からの小河原美保子さんの巻~


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聞き手:みなさん、こんにちは。本日はこのチームOK主催の311語り場に来ていただいて、ありがとうございます。みなさんの見慣れた顔ぶれと、懐かしい方にお会いして、私もちょっとドキドキしています。
今回、聞き手をさせていただきます、チームOKのSと申します。どうぞよろしくお願いします。
美保子さんの簡単なプロフィールを紹介して、そのあと語りに入りたいと思います。

福島県中通りから、北海道江別市へ ~「避難じゃなくて、移住」(戻らない)と決めて来ました~

聞き手:美保子さんは、福島県の中通り、福島県のちょうど真ん中から、現在江別市に避難中です。ご自宅は福島第一原子力発電所から約60キロあたりですね。
ご家族は、現在は旦那さまと愛犬のロイくん、2人と一匹暮らし。美保子さんには二人のお嬢さんがいらっしゃいます。長女は今、山梨県にお住まいで、次女とお孫さんが2人札幌にいらっしゃいます。
美保子さんは生まれも育ちも福島県中通りで、2012年の8月江別市に、旦那さまと愛犬とで家族避難されました。

現在、美保子さんの避難生活が1年1か月経過しております。美保子さん、今日はどんなところから今日は語りを始めましょうか。

美保子:まず訂正を。江別市に『移住』です。出て来るときに私は「避難じゃなくて、移住」(戻らない)と決めて来ましたから。ここは2本線引いて、訂正印ですね。

聞き手:はい。家族移住ですね。

美保子:夫は半分半分で、福島県と江別を行ったり来たりしています。ATMとしての機能も必要なので(笑)、行ったり来たりをがんばっています。

2011年3月11日 ~仕事中に突然の大地震

美保子:2011年3月11日、あのとき私はアフラックのサービスショップを福島県でやっておりました。もう10年くらいかな、保険の代理店はじめて15年、サービスショップになって10年、福島でお店を出しています。そこに、ガンでこの先どういう治療を受けようかなと考えている年配の男性が来ていて、一緒に「こんな治療があるね」って調べてる途中で、新しいお客様から保険相談のお電話があって。電話をとって話そうとしたときに、全員の携帯の緊急地震速報が鳴りました。電話口からも聞こえてきて。

とりあえず「切りますね、ごめんなさいね」って言って切りました。最初の揺れは大したことなくて、大丈夫かなと思いました。でも、奥の事務所にいた犬がワンワン吠えていたので連れに行って戻ろうとしたときに大きな揺れが来て。座り込んだきり動けなくなりました。
あのときの揺れって、表現がちょっと難しいんだけど、カクテル作るシェイカーに入れられて横だけでも縦だけでもない、ぐるんぐるんと揺られたような感じでした。立てない。時間もすごく長かったような気がするし、終わってみるとそうでもなかったのかもしれない。

終わると、お客さんがお店の方から「大丈夫か、大丈夫かー!」と呼んでいるんです。お互いに名前を呼び合って、揺れが収まったとき、とんでもないことが起きたのかもしれないと思いました。が、そのときはわからなくて。電気は消えてるし、書類は散乱してるし、ファックスが床に落ちて壊れてるし。目を開けたらそうなってたっていう感じだったんですね。お客さんが「帰らなきゃいけない」って。だから手を握って「大きい道帰ったほうがいいぞい、大きい道帰ったほうがいいぞい」って言って。「わかった、わかった」
ってそのお客さんは帰って行きました。

黒い土煙と黒い雲、狂ったように犬が吠えながら走ってきた

美保子:そのとき、いまだに忘れられない印象的なシーンがありました。
お店の戸が開いてて、そこから外を見たら、町の繁華街の方から土煙のような真っ黒いものが、わーーーっと襲いかかるように来たんです。真っ黒い雲も一緒に、襲いかかって来るように。しかも、おかしいのが犬が先頭だったんですね。どこかの犬がびっくりして逃げて来たのだと思うの。その犬が、狂ったようにワンワンワンワンって、吠えながら走り抜ける、その後ろから黒い土煙がわーっと来る、黒い雲が来る、で雪。雪がふったの。そのあと真っ黒な空が広がって。私57歳。あのとき55歳か。初めての経験でした。その土煙があまりにもすごかったので、もしかしてあっちの町は無くなっちゃったかもしれないって嫌な気持ちになりました。

で、うちの犬がやかましいので、ゲージに入れて車に入れました。
うしろにお年寄りが2人で住んでいる家があったので、そこに走って行って、玄関開けて「大丈夫ですかー?」って叫んだら、ふたりとも二階にいて。腰が抜けたって、ああいうのをいうんですね。動けなくて「あんたは大丈夫だったー?」って。
で、奥さんが、なにか茫然として「高いものが壊れたんだ」って言うんです。「100円で買ったのは壊れなかったんだけど、高いやつみんな壊れたんだ」って。
あの一瞬でおばちゃんよく見たことって思って(笑)。
「いやー、それじゃ新しいの買える、よかったない」なんて言って。

私は家に要介護5、半身不随で動けない母がいたので、帰らなきゃいけない、それしか考えてなくて。
鍵閉めたかわからないけど、どうせもうぐちゃぐちゃだし。でも守らなきゃいけないのはアフラックの個人情報が満載のパソコン。これは持って行かなくちゃいけない。大家さんに「私一回お母ちゃん見て来るから
って言って出ました。

停電の恐ろしさって、そのとき初めて知りましたけど、国道を右折しなくちゃいけないのに信号が止まっているんですね。あれは怖かったですね。右折だし。
みんな、びっくりしたように走ってて。そこを右折して家に帰って、母の部屋の戸をバーンと開けたら、なんか笑えるのですが、電動ベットが起きたまま止まって「寝れない」って言ってました。

「寝たいのかい?」って聞いたら、「寝たい」って言うから、ずるずると体をひっぱって足のところに椅子か何か足しました。そして、被害があまりなかったっていうのを確認して。薪ストーブがずれてたから直して。食器もそんなに割れてなかったし、よかったねと。母に「大丈夫だった?」って聞いたら「おっきかったない」なんて言ってました。年寄り、すごいと思いました。

夫は友達がやってるクリニックで診療を受けてる最中で、「おれの処方箋だけきってくれよ」って、処方箋きってもらって「こういうときは、腹とガソリンを満タンにするんだ」って、ガソリン満タンにして、やってるお店で食ったって。「あんたお昼食ったばい?」って言ったけど「食った」って。

で、もう一回事務所に戻りました。
どうなってるかわからないし、ブレーカーを落とさないといけないねって事務所に戻って。長女が帰ってきているようだったので、長女と3歳の孫娘を探しました。そしたら、おもてでキャーキャーやってました。その間もずっと大きな余震で揺れていて、近所の子どもたちが集まって、揺れるたびにキャー、キャー、って。そこをピックアップして車に乗せて。あと、余震のさなかにセブンイレブンが果敢にお店をあけていたので、カップラーメンと水と……電気が点かなかったのでカセットコンロを買いました。

カップラーメンと水は、私たちがいたところは高齢化していてお年寄りが多かったので、行ってみたんです。あそこ、ばーちゃん1人だったよね、あそこじーちゃんとばーちゃんだけだったよね、なんて思って行ってみましたら、みなさんけっこう落ち着いていて、びっくりしました。水とカップラーメンを置いて「今夜これ食べたらいいばい、今日これ食べてって何軒か配って。あのとき避難所や炊き出しの情報もまだなくて。たぶんあの人たちはラーメン食ったのかな。
そんなことをやっていた3/11。子どもたち全員がバラバラになるのも怖いのでと、うちに集まりました。彼女らは眠れない夜を過ごしたようです。私は寝ました。

震災翌日 ~海外HPで原発の爆発・メルトダウンを知った

美保子:問題の3月12日、次女は郡山の仕事先からまっすぐ家に来たので自宅も見てない、長女も家をそのままにしてきているというので、それぞれが一回家に帰って着替えをとってきたり、家の様子を見て片づけたり。婿は会社に行かなくちゃって行きましたね。
で、何時ごろだろう、水をくんできて、午後の2時、3時にはまた全員集まりました。
電気が点いたので、私は電気が点いてる間に、とにかくご飯を炊いて、おにぎりを握ってました。ご飯さえあれば生きていけると思って、ずっと。

夫は何をやってたかというと、夫は損保の仕事をしているので、地震保険の事故受けをしていました。これだけの地震だから、全員が被害を受けたという想定で、事故受けをしてしまえと。自分ちはファックスが転落して壊れてましたので、どこかの会社にもぐりこんで、ファックス借りて送ってきた、なんて素早い仕事をしていました。
そして、3~4時には全員が集まりました。で、テレビは付けっぱなしで。

その頃、原発の情報は「全電源喪失」っていうのは流れていたの。
だけど、そのあとどうなったの?っていうのが、わからなかったですね。

「いつまでも何もないね」なんて言ってました。

で夫が、「こういうときは外国で何て言ってるか見た方がいいんだ」って言い始め、婿がパソコンを立ち上げて。最初、CNN(アメリカのテレビ局)を開いたら、つながらなかったの。そこは日本語サイトがあると思ってたので。そしたら、つながらなくて、BBC(イギリス)を開きました。BBCは英語だからどうなの、なんて思いながらおにぎり握ってたんですよ、私は。広いリビングダイニングの端っこがキッチンで。そこで私はおにぎり握って、家族全員集まってて、夫がどこにいたのか……記憶にないんだけど、言うんですよ。「外国のニュース見っぺ」って。

NHKのニュースでは、4号機まで静かに並んで映ってたんです。
そしたらBBCを開いた瞬間に、婿が「爆発してます」って。「メルトダウンて書いてあります」って。

そしたら、その婿は着替えはじめました。ジャージか何かだったのを、着替えはじめたの。
夫が「なに?」って言って。みんなで見たら、メルトダウンって書いてあって、爆発の映像が映ってました。
でも日本のテレビは違ったんです。私たちライブだと思ってたよね?あのとき。NHKのニュースって。
でも違った。
一瞬で、なんだ……あのときの絶望感ていうか。
情報統制?「情報統制がもう始まったんだ」ってあのとき思った。

でも私「メルトダウンて何?」とか聞いてるんですよ(笑)。わからないことだらけですよね。最初がメルトダウンだったんですよね。
おにぎり握りながら「メルトダウンて何? メルトダウンて何?」って聞いてるの(笑)。

そのときの文章は「放射性物質を含んだチリが時速10キロで拡散中」って夫が訳してました。みんなで集まって見て、そこまでわかりました。80キロ圏内のイギリス人に対して、避難しろって書いてあった。で、私らは自分が原発から何キロのとこに住んでるかもわからないの。何キロあるっちゅの?ってネットで調べて、60キロぐらいじゃないかって。

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「強い母ちゃんになるんだぞ」 ~子どもたちと今生の別れをした

美保子:さあどうするって話になったんですよね。そのとき長女には3歳の孫がいて、次女は妊娠4か月で。婿がいて、夫がいて、私がいて、母がいて、同居してた兄がいました。いろんな都合が合って、兄と私と夫が同居して母を見る、という変則的な生活をしていたので。そこに、うちの子どもたちが集まってきていました。
そのときにね、何て言ったらいいんだろうって。一瞬で、画像の違いを見たって言うのもありますけど、放射性物質を含んだチリが来るんだったら、私たちも残れば死ぬのか、またはここに閉じこめられるか。だから子どもたちは逃がさなくちゃいけないんだろう、だけど、ここで逃げろって言ったら、帰って来ない、おそらくもう帰って来ないだろう、だから逃げろって言わなくちゃいけないんだろうけど、ちょっと言えない。あれ……何だろうね。

で、私が子どもたちに言ったのは「夫婦でもない、親子でもない、兄弟でもない、自分自身がどうしたいか決めろ」って言ったの。そしたら、もう婿は逃げる気満々で。着替えも済んで。次女は、お腹も大きいし、ポロポロ泣きながら荷物を作りました。私の車はガソリン満タンだから、私の車で行くべって言ってて。長女は私のところに来て「ママごめんね、私は子ども守らないといけないから行くね」って言ったんです。

私はおにぎりさえあれば生きていけるって思込むみたいに、おにぎり握ってて(笑)。車に毛布とか、布団とか、水、お菓子、大量のおにぎりを乗せて。でもやっぱり、「行け」ってなかなか言えないところがあって。きっともうこれで会えなくなる。私たちはきっとここから出られない。または放射性物質を含んだチリで私たちは死ぬのかなと思ってたので。だけど子どもたちは「行く」って。
「お金あるのか」って聞いたら、「大丈夫だ」しか言わないのね。

送るときに、外で娘2人と3人で抱き合って、何を言ったか……「お母ちゃんちゃ、みんな強いもんなんだ。あんたらも強いお母ちゃんになるんだぞ」って。私なりの、今生の別れをやりました。
で、お父さんどこに行ったのかな(笑)ってみたら、夫はカーナビを付けてやんなきゃなんねって。事務所にカーナビあるから回れって言ったらしく、彼はそこに行ってたんですね。
彼はカーナビをつけながら「いいか、時速10キロって言ってるんだから、時速30キロで行ったって逃げられるんだから、気を揉まねえで行くんだぞ」って言ったんだって。
あのときって覚えてます? 高速道路は緊急車両だけ。下の4号国道を南下してくしかなくて、どこまで行けるかもわからないの。道はどこでどうなってるかもわからなくて。本当に東京に行けるんだべかって。八王子の兄が11日から「早く逃げてこい、早く逃げてこいって言ってた。
「何やってんだお前ら、母ちゃんつれて早くこい」って。電話が通じなくて連絡がなかなか取れないまま、ともかく出すと。3月12日、彼らはそうやって行きました。

爆発を伝えても逃げようとしない ~放射能に対する意識、行き違いのはじまり

美保子:私はRちゃん(長女)のお母さんで、Mちゃん(次女)のお母さんで、小河原さんの妻ですけど、あのとき、それぞれ一人一人になった。だから今日、「Rちゃんのお母さんの話だ」って来てもらってるみたいですけど、あの子たちはこれからは自分の意志で、自分の頭で、自分の考えで生きていってもらわないといけないのよ、もう。
夫と私は夫婦だけど、それぞれ自分でちゃんと考えをもって、ひとりひとりで生きていかなきゃならないんだって。あのとき思ったの。
だから今後の私とのお付き合いは、小河原美保子とのおつきあいにしてほしいなって思ってます。

子どもたちが行ったあと、もう心配するだけ損だし、行ったら任せるしかないから、もう考えないようにしよう、考えないようにしようって思いました。それだけ濃密な数分間でした。

そのあと私はどうしたかというと、実家が建築屋なんですよ。そこに、家が壊れて家に帰れなかった若い人たちがたくさん集まってました。
うちは薪ストーブだったので、停電しても暖がとれるので、ご近所の方も集まってて。そこで「こういうことがあったよ、爆発したよ、うちの子どもたちは逃げたよ、あんたらも早く行け」って言ったら、しばらくしてから「みんなで相談したけど、決めたから。俺たちはここで死ぬ」って言うの。体育会系の男たちで。何考えてるんだろうってすごく思った。子どもだけでも出してやれって言ったんだけど。

「いや、おれたちはここで死ぬばい。みんなで決めたから」って。あのときはみんなすごく苛立ってて、ヒステリックだったと思う。集団ヒステリーだったのかも。一時の感情で終わるといいなと思いながら、怒って怒鳴ってきた。
「子どもらはあんたらの持ち物じゃねえんだぞ」って。半分笑われるみたいな感じで、私はそこを後にして、家に帰った。

なんか脱力感が大きかったですね。すごく大事な子たちだったし、大事にしてほしいものって、それぞれの命だったし。大きな行き違いってそのときにもう始まってたんだね、3月12日から。

それでうちに帰って、とにかく「放射性物質を含んだチリがやって来る、放射能がやって来る」って思って雨戸が電動シャッターだったんですけど、全部シャッターを閉めちゃったんですね。そしたら要塞みたいになって。それで、私ものすごくテンションあがっちゃって。「ああ、来るんだ、死ぬんだ」みたいに思って。半地下になってる食品庫にこもりました(笑)。

そこにこもって自分だけ助かってやる、とかって。電気は意外に早くついてて、水は出なかった。でも意外にね、死なないのよ(笑)。ほんとにね、もう死ぬんだって思ってたから。夜中に食品庫からゴソゴソ、「なんかさ、ここお酒割れてるからくさいんだよね」とか言って出ていって、死なないでよかったって思いました。母がいるし、私ら逃げられないし。
3月12日はそれがメインイベントで。しかも、おにぎりあげちゃったから、自分たちが食うものがないという(笑)。やっぱりカップラーメン食べたのかな。ありったけの食べられるもの、飲めるもの、全部積んでやっちゃったんで。私たち寂しかった、食べ物が(笑)。
12日はそんな感じかな。

聞き手:そのあとまた壮絶な、ここに至るまでのお話が待ってますので、いったん休憩を。深呼吸をして、第二部にうつらせていただきます。

 

保険事務所の二階が、長女のピアノ教室 ~思い出の曲『Believe』

聞き手:後半に入る前に、美保子さんの思い出の曲と、そのときのエピソードを……。

美保子:二階がピアノ教室になっていまして、長女がピアノを教えてました。彼女がピアノ教室を始めるのと、私たちが自分たちのお店を立ち上げた時期が同じで、一緒にビラを配ったりポスティングしたりして、すごく大事にしてきた場所なんですね。夕方になると三々五々、生徒さん達がやってきて、おもてでお母さんたちが談笑する声が聞こえたり、子どもたちが「こんにちはー」ってダダダダッて階段駆け上がってってピアノを弾く。いつも同じところで間違えて「またそこかい!」みたいな(笑)。そういうのを下で聞きながら、ずっと過ごしてました。
今の時期になると、ハロウィンを毎年やってて。私らも駆り出されて、隣近所歩いて「子どもたちが来たら一回びっくりしてこのおやつあげてください」なんてあちこちお願いしたりして。そういうのをやってきてたので、ピアノ教室の発表会で子どもたちが歌った歌がずーっと残ってました。
何がつらかったって、子どもたちの声が聞こえなくなって、ピアノの音が聞こえなくなって。あれはやっぱり寂しかったな。自分の子どもがいないっていうことよりも、あ、それも寂しかったけど(笑)、毎日いっぱい来ていた子どもたちが来なくなって、あの子たち今どうしてるんだろうってね。たまに、自転車でピューなんて走ってるの見ると「おまえ、自転車なんて乗ってるんじゃねえよ、マスクしろよ」ってね。ずっと思いながら気にしてたので。
その発表会の歌が「Believe」だったんです。311後は『Believe』を聞きながら、ぽろぽろ涙流しながら、ひとり事務所で仕事してました。

~歌『Believe』を流し、会場の皆で聴きました~

聞き手:ありがとうございました。聞き手でここに座らせていただいて初めてです、一緒に歌われた語り手さん(笑)。
ちょっと私の話が混じってしまうのですが、私、美保子さんと地元が一緒で、実は私の娘たちもリカさんのピアノ教室の生徒だったんです。それで、このような運命的な瞬間を今、一緒に過ごさせていただいています。

長女のRさんは、私の中ですごく大きな大きな存在で。私がここに今いられるよう、避難の背中を押してくれたのもRさんなんです。私の娘たちも先生のことが大好きで。ピアノの先生として接した時間はわずかだったんですが、グランドピアノの中の鍵盤と音の出る仕組みを熱心に教えてくださったり。

最後に教室で「(放射能から守るため)私は本当はこの子たちみんなを連れてここを出たい」ってRさんがお話ししてくださったんですね。私はそのときすごい勇気をもらいました。たぶん私が想像できないほどの、想像を超える生徒さんとの時間の共有があったのだろうと思います。

美保子さんも今こうやって笑ってお話ししてくださってるのですが、この曲をひとりで、子どもたちの声もピアノの音もない中で、おひとりで聞かれていたときのことを想像すると、ものすごく寂しくて、悲しくて、苦しくてって想いがあったんじゃないかなと思います。
そんな長女Rさんとの出会いに感謝をしている一人です。

長女が生徒たちを守ろうと必死に ~「もう自分だけ逃げてくれ」夫の言葉

聞き手:話の続きですが、美保子さんの地元では一時避難してる方が戻って来たんですよね。4月になって学校が始まるからってことで。そんな、地下に潜っていた方にとってはこの姿が絶望的だったって、聞き取りのときにお話を伺いました。教育委員会にも相談して、先生たちが掃除してくれて、そこに子どもたちが戻って来るんでしょ?ってお聞きしたそうなんですね。それでも、そうではなかった現実があって。自分が想像していたことではなく、すべてのものが真逆に動き出していることに、とてもびっくりしたんだって話されていて。5月22日。文部科学省前での……。

美保子:長女が、福島県に戻ってきてしまったんです。気を付けて暮らせば大丈夫かもしれないって一回戻ってきてしまって。やっぱりダメだって気が付くまで、ピアノの生徒さんのお母さんたちに、放射能について語っていったんですね。一人ずつ、語っていく時間を取ったんですね。
それがすごくすごく……、あの人ほんとにボロボロになったの、あのとき。私ら、狂っちゃったんじゃないかって思うくらい。
あのとき、二階のピアノ教室でやっていたことを、私はわからないの。わからないんだけど、50人の生徒さんを背中にひとりで背負ってしまって。この子たちを守りたいんだっていう気持ちがすごくあって、で、ひとりひとりの親御さんと話していったんですね。でも、大多数が「先生はいいばい、お金も持ってるから逃げられっぱい。私らは何もないから逃げられん。余計なこと言わないで」ってことも言われて。「私らの生活乱さないでほしい」みたいなことも言われて。
すごくボロボロになってたときに夫が怒ったんです。

「もう他の人なんかいいべ。おめえが生徒を大事なのはわかった。でも親が話を聞かねんだから、もういいべ。もういいがら自分らだけ逃げてくれよ」って夫が娘に言ったの。
自宅の駐車場でね、30になる娘を張り倒すくらいのことをやったんですね。50過ぎたオヤジが娘に手をあげるのか、と思ったけど、そんなこともあったの。

文部科学省前で年間放射線量20ミリシーベルト撤回を求める抗議活動に行くときも、「子どもどうするんだ、子ども置いてくのか、みんなに迷惑かけて、お前は他の人らのことやるのか」って夫は言ったんだけど、私は「もういいから、この子は預かるから早く行け」って、長女のこと行かせました。

子どもの鼻血に、長女が決断 ~「ママ、私、明日札幌に行く」

美保子:そしたら孫を外に出したわけじゃないし、家の中で本を読んだりして遊んでたんですけど、鼻血が出てしまって。血を見るっていうのは意外にびっくりするもので、私がすごく動転してしまって「鼻血出ちゃった」って。鼻血は放射能の影響だって頭にあったので、本人に電話で言って。電話の向こうで、文科省前のシュプレヒコールが聞こえてた。長女は「わかった、今から戻るわ」って言って。

私たちはその頃、避難先の拠点を、八王子から栃木に移してたんです。そこで「じゃあ私は子ども連れて栃木に行かなきゃなんね。ここに置かれねえから連れて行くんだ」って連れて行こうと思っていたら、また電話があって。
「もういい。ママ、私明日札幌に行くから、そこ動かないで」って言われて残ったの。

そのときすでに次女は、ツイッターで札幌の天使病院が妊婦さんを無条件に受け入れてるって情報をつかんでました。ツイッターの情報なんて信用できないんだから電話して聞けって言ったら、電話して大丈夫だってことで、次女は行くことに決まってたんです。だから、長女たちにも「行くなら札幌だね」って言ってました。そしたら長女が、明日札幌に行く、ってことになって。

文科省前抗議から帰ってきて一晩で用意して、夫の許可も得ず。次の日の朝、IWJ(ネットTV)のカメラ撮影も入ってたよ、行くとき。避難していくときに、玄関をバッとあけて、「私らは逃げるぞー!」って叫んでました。私も一緒に札幌に入って。それが5月22日か23日か。文科省前抗議の翌日に札幌に入ったんです。

長女のその動き方っていうのは、やっぱり私たちにはかなり衝撃的でした。だってサラリーマンのお嫁さんでピアノ教室の先生やって、私が夕方になると子ども預けてるとこに迎えに行って、私の家に連れて帰って夕飯一緒に食べて、お母さんが仕事終わって迎えに来るの待つっていうおだやかな日々の繰り返しだったのに。
文科省前でシュプレヒコールを叫んでる娘、ちょっと衝撃的ですよね。そういうの。
でもその背中に、50人の生徒さんを抱えちゃったんだなと思うと不憫で。しかも父親にぶんなぐられて。不憫だったなって。今度会ったらヨシヨシってやってください(笑)。

聞き手:長女さんは美保子さんと同じ血を引いてるっていうか、いつも笑っていて。私たちが避難して来たときも「札幌駅の北口ね。北って書いてある方に向かえば私いるから
って。
到着した時も、大きく手を振って「ようやくここまで来れたね」って笑顔で迎えてくれて。
つぎつぎ避難の決意をしたお母さんたちの背中を押してくれた彼女だったんです。だから唯一、いろんな彼女の姿を感じていらっしゃるお母様の話は、ぜひ聞いてみたいなって思っていました。
(会場内に)お配りしたお孫さんの写真にあるコメントは美保子さんの言葉です。
私たち世代は、がむしゃらに子どもたちのことを思って避難を決めたので、なかなか、じいじやばあばと呼ばれる方の想いって聞けないのですが、こうやって言葉になるとすごく重く響くものがあります。今や、次女の息子と書かれているこの子も、とても立派に成長されてますよね。

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美保子:なんか近所の方に餌付けしてもらって(笑)

聞き手:保険屋さんのお店が始まった時に、美保子さんはどこかのスーパーに入るとかじゃなくて、ロードサイドでやりたいんだっておっしゃられていました。聞き取りも、新しいお店でさせていただきました。
通学路になっている小学生の子どもたちが、ドア越しに声をかけてくれたりとか。ご自由にお取りくださいって置いてあるところを、ベビーカーを持ったお母さんが立ち寄ってみたりとか。ホントに地域の中にある保険屋さんを、秋晴れの中で眺めることができて、気持ちのいい聞き取りの時間が持てました。すごく楽しかったです。そんなお写真も中に揃えてあります。

長女が札幌に行った後、福島県では ~「セシウムのふりかけかかってっから」

聞き手:長女さんとお孫さんが札幌へ行くのに同行されて、数日後、美保子さんは福島県に戻られたのですね。その頃の地元は、安全だとか、危険だとか、スーパーに買い物に行けばみんなと「どう思う?」って話ができたり、できなかったり。

講演会も徐々に始まっていったんですね。その講演会も、安全だという講演だったり、防御の仕方だったり、いろんな情報があふれていて、何をどう感じて、どのように行動していいのかが全くわからなくて。

テレビの中でもテロップで各地域の線量が流れていて。自分の持っているガイガーカウンターで測った人は「うちのほうはこうなんだ」とか、「雨が降ってきたらこういうのかぶるといいらしいよ、頭を濡らしちゃいけないらしいよ」という情報が飛び交う中、こういう講演会に誘われていたそうなんですね。
そして「放射能は健康にいいとか、いろんな講演会があって。そういうものの誘いを断っていたら、だんだん居場所がなくなっていったんだよね」ってお話されていました。

地元でお野菜を作っている農家さんもたくさんいました。その頃、野菜の出荷停止もどんどんはじまっていたんですね。なので地域では「うちの食べられなくなっちゃった」って何も手につけられないって農家さんがたくさんいらっしゃって。
そんな友人の方々がお野菜を持ってきてくれたりも……あったんですよね?

美保子:「セシウムのふりかけかかってっから」ってね。何かもう……なんて言ってたらいいかわかんないよね。「申し訳ありませんけれども、そういうの、うちはいただきません」と私は言って。どういう影響があるかっていうことについて少しお話させてもらって。がく然として帰る、っていう。そんなこともありました。

行政の通達を、お年寄りにもわかりやすくブログに載せたら大好評

美保子:私がその間やっていたことは、市役所と県の方から来る市役所の記者会見のときのペーパーが手に入ったので、それを自分のブログと、もうひとつ預かっていたブログ2つに載せました。福祉資金といって、お金を借りられる制度があったんです。
普通のお宅は一軒10万円、お子さんお年寄りがいる家庭は20万円。無担保無利子無保証人で借りられますよって内容が、すごく難しい文章で小さい文字で書いてあるの。あれじゃお年寄りは読めないし、理解できないだろうってすごく思って。それを私がどうにか伝えたくて。こんなときだから許されるだろうと思って「お金借りられます、身分証明書を持って市役所へGO!」みたいな、そういう文章を作りました。

札幌の方もいらっしゃるので参考になるかな、とお話するんですけど、町内会で防災組織を作っているんですが、そこに私呼ばれて、何かなと思ったら、「あんたのやつが、インターネットの奴がすごく役に立った」って言われたの。それを見て、若い人がお年寄りに「じいちゃん20万円借りられるんじゃないかとかって言ってくれたみたいなんですね。
あのとき銀行でもお金下ろせなかったり、あと、お金無くちゃ下ろせないし。お金がほしかったときに、お金貸してくれるよ、利子かからないよ、担保とらないよ、っていうのがあるんだけど、みんな知らないの。だから「お金借りられます、市役所へGO!」がよかったって、みんなにすごく褒められました。

あのときに、それをどうやったらもっと伝えられるのかって話になって、町内会にある掲示板に大きくマジックで書いておいたらどうだって話になりました。その脇に、ちゃんとした文章を貼って、これの意味はこうだよっていうのがわかれば役に立つかなって思いました。

下半身まひの母を抱えて ~「俺が母ちゃんの首絞めっから、あんたら逃げればいい

美保子:私の母は心臓の手術をしたときに、100人のうち5人くらいはあるかもしれないっていわれたのかな、下半身が動かなくなることがありますっていうのに同意の署名をしたら、それに当たってしまい。心臓の手術を受けたんですけど、下半身まひになってしまいました。義姉が乳がんで末期の状態だったので、私がずっと病院の母の担当してて、時系列でいくと、姉が亡くなる、母が退院する、って感じだったのかな。退院に当たってどうするかと。一緒に暮らして、とにかくご飯を一緒に食べられるようにしたいと思って、私ら夫婦と兄と母との共同生活をしていました。

そういう中で大きな地震があったのですが、まず介護サービスが止まりました。
あのときは水が出ない、電気が点かない、ガソリンが無い、で介護の方は来れなくなりました。すごく孤立した感じがあったね。いつもお風呂の人が来たりしてたんだけど、とにかく寝たきりだからきれいにしなくちゃいけないので、水をいっぱい汲んできて、薪ストーブだったからお湯はいつでも沸かせるっていうのがあって。あとは情報発信のついでに「紙オムツが無い」って発信したらすごく寄付が来たり。紙オムツとお薬がなくなるかもしれないって噂が飛んで、すごく不安でした。介護の人は来ません。

うちはヘルパーさんを自費でお願いしてたんですが、ヘルパーさんが「家に帰りたい」ってなるんですね。大きな地震もあったし家も心配だから帰りたいって。「あんたのとこは道なんか壊れてて通行止めらしいよって」ウソまでついていてもらって、なんとかつないでつないで、やってきたの。

でもあのときね、心配だったのはアウターライズ地震。あのとき「もう一回大きな地震来たら、私たち避難する」って言ってた人がたくさんいたの。爆発の映像も見たわけだし、爆発してるのもわかってるわけだし、そこでアウターライズ地震が来るって言われたら、次来たら逃げようと思うの当たり前じゃない?
逃げてほしいって思うの。その若い介護職の人たちや看護師さんたちに。
でも、逃げて欲しいし、逃がしてやらなくちゃいけないのに、みんなが逃げて行っちゃったら私らだけでここに残るのって不安があって。

私は「母を会津の施設に入れないか?」って兄に持ちかけてみたんです。みんなが会津に避難してたから。会津ならいいかなと思って。みんなが行くなら、会津に行ったらどうだって。
そしたら、「いや遠いからダメだ」って。
「でもそんなこと言ってたら、もう誰も逃げられなくなるよ。次に大きな地震来たらみんな行っちゃうんだよ。そうしたら、もうここにいる人は誰も逃げられないんだよ」って言ったらうちの兄が、「あんたらは逃げたらいいばい」って。

「私が逃げたら、誰がお母ちゃんのこと看るの、誰がごはん作るの、誰がちゃんとやってくれるの。介護の人誰も来なくなるんだよ」って言って喧嘩して。
よく考えてみると、そのときまで私の兄は一緒にいてご飯を食べたりしながら、そういう風に思ってたんだって。この次なにかあったら「こいつらのこと逃がすべ、俺ここに残って母ちゃんと死ぬべ」って思ってたんだ、って思ったらなんかすごくせつなくて。
「俺は長男だから、俺はここで親を守る。守りきれなかったら死ねばいいばい」っていう。。。

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施設に入った母との別れ ~「みっちりやれ」が遺言になってしまった

美保子:原発事故って、なんだろう。自然災害って時間とともに何とか復興していけるところもあるよね。でも、原発事故って時間とともに、違う障害がどんどん出て来るものなんだって。あのときにすごく思ったの。
で、結局会津にって話はできなくて。近くにいた方がいいんだ、近くにいた方がいいんだ、っていうふうになって。だけどここにいたら、この次何かあったときに逃げられないから、母にはやはり施設に入ってもらえば、施設ごとに避難ができるかもしれない。と思って施設を探しました。1年半かかりましたけど、市内の施設に入りました。

そのとき「お母ちゃん、K先生のとこで預かってくれるって言ってるから、K先生のとこにいかねかい?」なんて。あ、その前に「北海道に行こうかな?」って話を母としてて、「北海道に行きたいな私、子どもらいるし、北海道に行きたくなっちゃったな」って話してた。
そしたら「私がいるから行かれねぇのかい?」なんて母が言いだして。「そういうわけじゃないけど、だんだん行くようにするかなって思ってんだ」って母に話したら「あだし、どこに行ったらいい?」って言ったんだ。それで「K先生のとこでいいよって言ってくれてるからどうだい?」って聞いたら、「あぁ行くばい」って言ってくれて。そこに入ってもらうことになったんです。

行ってみたら「みんなで何かやってるときに、耳が遠いから補聴器がないと聞こえない」って言うので補聴器を新調して、「あそこがまぶしいから薄いサングラスほしい」って言うのでサングラス新調して。そこまで私はやってきた。
母のことをとても慕ってくれて、身内でもないのによく面倒見てくれるおばちゃんがいて、そのおばちゃんが「あんたらはホントに今まで一緒に住んでよくやったから、あとは施設に入れば私でも何とかなるから、あんたらは行きな」って言ってくれて、行っていいのかなって思って。

だけどやっぱり置いて出ていくっていうのは、何だろう、すごく無責任な気がしてなかなか決められなかったんです。
だけど寂しいし、夫はガンになるし。
夫のガンの手術のときだって、子どもらは呼ばねえべってなって。
これから先、すべてふたりでやっていくのかって思ったら、やっぱりちゃんと動けるうち、働けるうちに北海道に行って仕事をやってくのが一番いいんだろうって思って移住を決めたんですけど。でもなかなか出られないんです、母のことがあって。

夫が「いや、あんたもう限界だから、あんたを出さなきゃなんね」って思ってたって。
寂しい、お母ちゃんどうすっぺ、誰がこうだ、これがこうだってたくさんいろんなことが起って「あんた限界だから、北海道にやるしかねって俺は思った」って夫は言うんですけど。

施設に入った母に「北海道に行くね」ってあいさつに行ったら、「わかった」って。
「後から行く人らがいるから、あんたはみっちりやれ。みっちりやって、みんなを助けろ」って。下半身まひで自分で動かないくせにそういうこと言われて。
「わかった。お母ちゃん、私がんばって迎えに来るから」って言ったら「北海道は食い物うまいから行きたい」って笑って別れてきました。

そのあと2012年の1月24日に亡くなったんですけど、それまで、ものすごくつまらないことでしょっちゅう私に電話よこしてたのに、一回も電話よこさなくて。
「あの人はもういい」って思ったんだと思うの。1月23日に兄から「なんかごはん食べなくなっておかしいから、明日病院に入れるから」って電話きて。
明日戻ろうと支度して、飛行機のチケットを取ったりして週末に戻る予定になってたのに、次の日の朝「亡くなったから」って電話きて。
みっちりやれ」が遺言になってしまいました。

孤独から仲間の輪へ ~年なんて関係ない。私とあなたのおつきあい

美保子:私、みっちりやらなきゃなって。それまでけっこうプラプラしてて、避難してきた人は若い人ばっかりだし「おばちゃんのくせに逃げてきたのかい?」って思われるのもしゃくにさわるし。
長女が福島の中かんまかして行ってしまったので、きっと子どもが避難した家の人たち、残っている人たちはうちを恨んでいるだろうって思い込んでました。大事な娘を連れて行かれちゃったって思ってるに違いないって。しかも、長女はせっかく北海道に来たのに山梨に行っちゃって。みんなにホントに悪くて。

きっと話せばすごく簡単に解決したことなんだけど、それができなくてこもってたんだよ、江別の家に。
でもあるとき、Sさん(聞き手)のお父さんが「美保子さんが近くにいてくれてうんと心強い」って言ってたよっていうのを風の便りに聞いて、Sさんに連絡して「遊びに来ないかい」って思い切って誘ってみたら来てくれて。
今まで自分一人で勝手に誤解してたんだっていうのがわかって。
うちは夫がお料理上手なので、夫がいないと何も美味しいご飯は出ないんですけど(笑)。喜んでくれて。避難者団地での夜の飲み会にも誘ってもらって、それで少しづつみんなの輪に入っていったの。

あのね、避難者団地に来てる年配の方もそうだと思うの。私はこれだけの年なんだから、みんなに対して、こうでなくちゃならない、立派なおばちゃんでなくちゃならない、とか思ってるかもしれない。
でも、そんなの全然関係ないじゃん。こうなったら、私とあなたのお付き合いでいいんだなってすごくわかって。避難してきた年配の人たちも、そこ捨てた方がいいと思う。年なんか関係ないから。同じ人としておつきあいしていければ、きっともっとつながりやすいかなって。「憩いの会」で物議をかもした、「私、シニアじゃないから!」っていう話も含めて(笑)。
(※憩いの会=チーム☆OKが主催する、50代以上の方を対象とした交流会)

みんなこう……ちょっと優しい気持ちで、おばあちゃん、おじいちゃんにもち声かけてあげると入りやすいよね。孤独はやっぱりつらいよ。寂しいよ。うちは犬がいたからまだいいけど。犬とふたりで暮らしてて寂しかった。

江別市で保険事務所を開設 ~ハードルを上げればきっと超えられる

美保子:一月に母が死んで葬儀して戻ってきてから、店の場所を探して。雪の中で探そうと思ったのは雪の状態を見ないとわからないなって思ってたんだけど、ぜーんぶ雪だったから、同じなんですよね(笑)。ぜーんぶ雪で。すごくびっくりして。
野幌の若葉町、白樺通りっていう通り沿いなんですけど、江別で一番先に雪がなくなるところなんです。たぶん道路が広くて、風が通って、お日様あたるところだからかなって思って。で、そこを借りました。すごくハードル上げてます。自宅も自分で借りてるし、ショップも自分で借りました。すごーくハードル上げてます。

でもハードル上げないと超えようとしないんだよ、私。じゃあ、自宅のスペック落とそうか、こんな高いショップじゃなくて、2万5千円の物件もあったんだよ。細長いんだけど。そこにすればよかったのか、って考えなかったわけじゃないの。でもハードル上げないと絶対超えようとしないから。

今回もハードル上げてエリさん(国会議員・徳永エリさん)呼んでしまって(笑)。でもそうすると、きっと超えられるの。ハードル上げとくと超えられるなぁって。超えられるようにがんばる。そこで娘と2歳になった孫と、一緒に仕事っていうか、子守りしながら。
仕事はほとんど、福島のお客様からのお仕事です。紹介してくれたり。
「あんた大変だばい、お客さん紹介してやっから」って紹介してもらったりして、お仕事を少しづつやってます。

 

みんなはまだ避難者なのかな? ~みっちりしようよ(愛のことば)

美保子:あとね、言っとかなきゃって思ったことがある。
この前、みちのくかい会会長の本間さんもおっしゃってたけど、自然災害の被災者と原発事故の被害者って違うと思うんだよ。だから同じくくりの、同じ法律の中じゃ守りきれないと思う。

それで、みんなまだ避難者、なのかな?

最初のキャプテンの挨拶で「私たちは、前を向け、そろそろ過去を振り返るなっていわれると困る」みたいな話あったけど、私は57歳で、悪いけどここで身を立てていくつもりで出て来てるんだから、あんたたちもみっちりしろって言いたいよ。

過去もわかる。残してきた人のこともあるし、すごくわかるんだけど、まず自分たちの衣食が足りて、自分たちがちゃんと生活できる、足元固める、それが実はいちばん大事なんじゃないかなって私はずっと思ってるの。
できることでいいよ。いくらかずつでも、ちょっとずつでもいいよ、稼いでみようよ。
お金がすべてではないのはわかってるけど、衣食足りなかったら、何もできないんだよ。

そろそろ震災から3年に向けて、自分の足元固めて行っていいのかなって思ってるの。そのために役に立つことがあれば、私はがんばるよ。自分のためだとできないけど、人のためだと意外にできたりするんだよね。私らは人のために役に立てることはやろうと思って来てます。

本当の復興は自分の復興 ~過去を抱いて、どっこいしょって立ち上がれ

美保子:復興って、復興、復興、議員さんがいらっしゃるのにアレですけど、福島の復興ってあると思う?みんなあると思う?
ここに写真あるけど、藍藻。黒い藍藻。ここの近くは必ず放射線量が高いんだよね。こういうのが街のあちこちに散らばってる。そういうのをきれいにして、ほんとに住んでOKだよってならなくちゃ、復興ってないと思ってます。
そうしたら、「復興って何?」って思ったら、自分自身の復興を目指すのが、いちばんてっとり早い近道なんじゃないかなって思うの。

例えばだよ、自分たちが何とか食べられるようになったら、福島を出たい人がいたら役に立てばいい。ひとりでも役に立っていけば、復興がふたつになる。
地域の復興っていうより、人が復興する方が大事なんじゃないかなって最近思ってきた。
お金すごく回ってんだよ、福島県って。同じ場所で、アフラックサービスショップを新築しますって言ったら3/4の補助金が出るんです。だからお店とかどんどん新しくなってるけど、あれって見せかけの復興のような気がして。

この前も、義姉の法事で戻った時に思ったけど、町並みはガラッと変わりましたよ。きれいになって。蔵があって、大谷石の塀が回っていたのが全部壊れて、きれいに取り払われて、軽量鉄骨みたいなおうちが並んで違う町並みになってた。

復興って、きっと自分の復興なんだ。人が復興しようって。そういうこと言うと……ダメなのかな?
過去をちゃんと抱いて、そのままどっこいしょって立ち上がって行こう。そうしないと、きっと復興はない、福島の復興はありません。福島の復興は私たちが復興することなんじゃないかなと思うの。それで福島を出たい人が出て来れるように。私らみたいなのが残ってて、病気になったらどうするの?みんなのお父さんお母さんが病気になったら帰らなきゃいけない?
そのときに帰れればいいけど、帰れるのかい?

そうしたら「お母ちゃん、私こういうことしてやれるから、こっちに来ないかい」って言えるように余裕を持てるような、そこまでできるといいなって思ってるよ。

シニア世代の避難には、大義名分を

美保子:50代60代の人って、避難する大義名分がないんだよね。みんなはいいよ、こどもを守るって言って出てきてるから。でも実際に来てみたら、子どもに守られてるじゃん、みなさん。子どものおかげで自分も出て来れたっていうのがあるよね。
私たちそういう大義名分がなくて、出て来れなかった。それで今回、避難移住にあたってすごく悩んだのは、大義名分。みんなに何て言う?何て言えば納得してもらえるんだろう?って。で、私たちが考えたのは、後継者。

これホントの話なんですけど、次女が出産が終わったら、一緒にアフラックの仕事をやることに決まってたんです。生命保険ってすごく長いお付き合いになって世代をまたぐので、後継者って必要だったんです。それで次女がやることに決まってたの。

ということはだよ、福島のサービスショップで私と次女が保険の仕事、二階で長女がピアノ教室、後ろの事務所で夫が損保の仕事をするという、素晴らしい老後の計画があったんですよ。そのためにお金もかけてきたわけだし、会社ふたつ作ってやってきたのに。一瞬でパーですから。

後継者が札幌に避難して「私たちはもう帰りません、私たちは札幌で暮らします」って言われて。仕事の後継って意味もあって、というかそれを全面に出そうと。そういう大義名分を自分らで作って、何人かに話をしてみて反応を見つつ。「だってこの仕事、私が病気になったらできなくなっちゃうから、そしたらお客さんに迷惑をかけてしまうし」って回りくどい理由を作って反応を見てみると、前面に仕事を出すと意外にウケがいいってわかって。それを私たちの大義名分にしようって、思ったんです。
実際は寂しがり屋だから出て来たんだって、ホントはそこだったのかなって思うけど。さっきの『Believe』なんか聞くと泣けてくるんだよね。

あのときの子どもの声とか、「おばちゃ~ん」って来る、あれがなんかこう、どうしてるのかな、なんて。「R高校に合格しましたー!」なんて3月に言われて。あそこって4マイクロくらいあったよねって思うと、素直におめでとうって言えない……そんな地域になっちゃった。
大義名分考えてやるといいよ。お母さんとかお父さんとか。もしくは誰か出たい人と思っているがいるなら、大義名分考えてやるといい。

必要な支援は時間とともに変わる ~北海道には移住を支援してほしい

美保子:あとやっぱり必要な支援って、自然災害もそうですけど、時間の流れとともに変わっていきましたよね。水がほしかった、食べ物ほしかった…というのから、どんどん変わったのと同じように。この原発事故の被害者に対する支援だって変わっていっていいんじゃないかと思うの。
そしたら今度は何が必要なのかなって思ったら、多くの人は移住を望んでるかもしれない。北海道には移住を支援してほしいなって思ってる。仕事なり、住宅なり。
あとから行く人には住宅支援しないぞっていうのは、どうなのかな?
早く出た人はお金払わないで住めるけど、あとからの人は自分で出せってなるわけで。うちなんて犬がいるから団地に入れないじゃん。でもやっぱり犬置いてこれないし。そういう人けっこういると思うんです。移住の支援と、住宅支援の継続、新規の受入れ。できないのかなって思うんです。岡山なんかは、住宅支援やってくれてるんですよね。私のところからも何人か行っています。

私の福島での保険事務所は、ほぼ避難相談の事務所になってて、若いお母さんたちが泣きながら相談に来てました。だけど、うかつに「避難したら?」って言えない。あとのこともあるし、生活のこともあるから、行けとは言ってあげられなかったけどけっこう動きました。
あのとき県がやってくれなかったから、こんなに全国にバラバラになっちゃって、コミュニティもへったくれもないじゃんって思ってます。
だから私は江別で保険屋やりながら、江別に避難してる人いないのかな、遊びに来てくれたらいいな、と思ってます。
あとみんな、札幌からも遊びに来てね。
私、保険屋だけど、「名前書け、ハンコ押せ!」ってやらないから、遊びにきてください(笑)。

〇〇の母、〇〇の妻ではなく、一個人として生きていけることがご褒美

美保子:私は、小河原美保子さんとして生きていくっていう、ものすごいご褒美をいただいた気がしてます。私は、母がすごく優秀で大店のおかみさんで頭良くて美人で、その娘だからきっと同じに違いないって思われてすごく苦労したんです。それもなくなったし。兄貴も置いてきちゃったから○○さんの妹、ってなくなったし。小河原君の妻、っていうのもここに来ると関係ないし、リカちゃんのお母さん、ミカちゃんのお母さん、もないから。
だから今すごく楽。それが初めての経験です。
小河原美保子さんっていう一個人として生きていける、生きていける場所がある、北海道江別市。
もう決めたんです。だから・・・手つかんでハンコ押させないから、遊びに来てね(笑)。

聞き手:それでは、チームOK主催、311語り場第8回、小河原美保子さんの語り場を終わりたいと思います。ありがとうございました(拍手)

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感想タイム:福島県中通り(美保子さんと同じ市内)から避難のSさん

Sさん:当時、私もすごく不安だったんですけど、私のまわりにはそういう大人がいなかったのですごく心強かったし、Rちゃん(長女)のおうちでお話できた時間が、本当に……私が今ここに来る大きな意味のある時間だったんですよね。
今日の美保子さんの話を聞いて、私は母子避難でまだ主人が福島にいるので、今の現状で必死で。
先のことを決めて、自分たちの人生を進んでいきたいって思いはあるんですけど、家族がバラバラで暮らしている以上、家族がどういうふうに進んでいくか、私がどう生きていくかっていうことが決められない。
それでも前を向いて生活をしているんですけど。
私がまだ見れていない先のことを、美保子さんが今日おっしゃてくれて、私もみっちりやっていかないといけないんだなってまた背中を押してもらえました。ありがとうございます。
もっとたくさん話したいことはあるんですけど。お話を聞かせてくれて、ありがとうございました。

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感想タイム 参議院議員 徳永エリさん

徳永エリさん:みなさんこんにちは。参議院議員の徳永エリでございます。小河原さん、今日はいい話をありがとうございました。ビッグママっていうか、小河原さんみたいな人がそばにいて、本当に心強いだろうなと思いました。ありがとうございます。

私は実は小河原さんのお兄さんと縁がありまして、運命の出会いだと思ってます。最初にお会いした時に、たくさん方の中でお兄さんだけがぽんと浮かび上がって見えて、ひとことふたことお話をさせていただいたら、とってもいい方だったので、そのあと一緒にお仕事をする縁がありまして。
そしたら「うちの妹が今、札幌にいるんだよって話になりました。それでご連絡をさせていただいて、そこからご縁があって江別の事務所にも、できて間もなくお邪魔させていただいて。
今回もフェイスブックのお友達なので、今日話をするんですよってお誘いいただきました。
今日は議員という立場ではなくて、小河原さんのお友達として、お兄さんの知り合いとして、そして今日この場に集ってる方々も、何人かもう2年近くお付き合いしてきた方々もいらっしゃって。そんな縁もありまして今日は参加させていただきました。

私が今まで、子ども被災者支援法を仲間と一緒に作る過程においても、みなさんといろいろお話しさせていただいる中でも、あるいは福島に行ったときの話でも、いろんな思い出がありますけれど、いちばん覚えているのは、福島の金子恵美さん(前参議院議員)と、愛知の谷岡さんと私と、3人で郡山の富岡町の人たちが暮らしている避難住宅に行きました。
そこの集会所に集まっていただいて、いろんな話をしたのですが、高齢者の方々が「北海道に行っている若い人たちはどうしてる?」って聞いてくれたので話をしました。「家族に反対されて、あるいは親戚を捨てるのかとか、これで絶縁だぞとか、いろんなこと言われて、本当につらい思いをしたけれども、でもどうしても子どもたちの命と健康を守りたいという心で、慣れない地で一生懸命がんばっていますよ、その気持ちだけはわかってください」とお話をしました。いろんな話をして帰りに玄関にいたら、あるおばあちゃんが走ってきて「徳永さん、みんなにこう言ってあげてください。でかした、よく子どもたちの命を守ってくれた。みんなそう思ってるんだと。でも福島では言えないんだと、わかってください」と言われました。

すごくありがたくて嬉しくて、そのことをホームページに書かせていただいて、私が知っている福島県からの避難の方に何人かに電話をしてお伝えをさせていただきました。
小河原さんがおっしゃっているみたいに、本当に原発の事故というのは、なかなか復興ができない。
特に心の復興というのは本当に難しいなと思っています。子ども被災者支援法も、なかなかうまくいきません。非常に高い壁が立ちはだかっている感じがします。粘り強くやるしかないのですけれども、そこに頼ってばかりもいられないので、みんなで、小河原さんのおっしゃっているように、できることをひとつひとつやっていかなければいけないと思っています。

今までも、避難のみなさんに頼まれて、防犯カメラ作ってくださいとか、保育園に子ども預けたいのだけど、札幌市役所に行っても難しいのでどこか無認可保育園で預かってくれませんか、といわれて探して預かっていただいたりとか。いろんな私ができることをしてきましたけれども、今はやっぱり移住のことが本当に大事だと思っています。
今、道庁にも働きかけて、全道の自治体で、空いている家もたくさんありますし、人口が減少していて、若い人に来てほしいと思っている自治体もいっぱいありますから、そういうところとみなさんをつなげていきたいと思っていますし、そのためには仕事も探さなければなりません。
確かに札幌近郊に住んでいると便利がいいのはわかります。子どもたちの学力もみなさん心配なさると思いますから。でも、本当に田舎の自治体でもですね、一生懸命に教育に力を入れている所もありますし、素敵な人たちが暮らしているし、安心安全な農作物はいっぱいあるし。最初は寂しいかもしれないし慣れないかもしれませんけど、やっぱり暮らしていくってことを考えなきゃならないので、我慢しなきゃならないこともあると、そこはみなさんにご理解していただきたいと思います。

あとは、いつも申し上げるのですけれども、国会議員も都議会議員も市会議員も、決して遠いところにある人間ではありません。敵対する存在でもありません。みなさんが選んだ人間ですから、みなさんが使わなきゃいけないんです。だから何かあったら何でも言ってください。できないことはできないって言います。でも、私のような微力な人間でも、できることはさせていただきたいと思いますので、これからのみなさんときちんと連絡を取りながら、一緒に、心の復興に向けてがんばっていきたいと思います。
今日は本当に貴重な機会をいただきまして、みなさん、ありがとうございました。小河原さん、ありがとうございました。

 

美保子さんの感想 ~お墓とか仏壇に向かって泣けたらいっちょまえかな

司会:では最後に、美保子さんの感想をいただきたいと思います。

美保子:すごく脱力しました(笑)。用意してきたわけではなくて、聞き取りをしてもらって、ここ一週間十日くらい思い出してて。
けっこうイヤなことって人間忘れますよね。で、記憶を掘り起こす作業をずっとやって、ちょっと涙をポロっと流してみたりしました。
でもやっぱり何かね、5年も介護してきた母が死んだときも、今までも、まだちゃんと泣けていない。それがちょっと気になってて。何だろう、きっとまだ緊張感が残ってるんだと思うの。続いてるっていうのかな。
震災からの緊張感の中に、まだあるんだなって今回、時系列でずっと考えていきながら思い出したの。
私ちゃんと泣けてないじゃんって。お墓の前とか、うち仏壇に母の写真もあるので。

そのうち泣きながら話しかけたりできるようになれば、まぁいっちょまえだな、と思います。
今の感想はちょっとすっきりしました(笑)

司会:ありがとうございます。じゃあチームOK恒例の、語ってくださった美保子さんに対して、みんなで「ありがとう」を拍手とともに言いたいと思います。

全員:美保子さん、ありがとうございました。(拍手)

(終わり)

札幌市さぽーとほっと基金(東日本大震災被災者支援活動基金)

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小河原美保子さんの『311・語り場』は、札幌市「さぽーとほっと基金」の助成を受けて行われました。
皆様の貴重なご寄付を遣わせていただき、本当にありがとうございます。

札幌市「さぽーとほっと基金」のホームページはこちらです

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チーム☆OKでは、『311・語り場』をはじめ、原発避難者自身による活動を続けています。
その取り組みを継続し、広く発信するため、皆様に『OK☆募金』の御協力をお願いいたします!

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