【語り場】『311・語り場』宮城県からのマリアさん・全文掲載

チーム☆OK『311・語り場』宮城県からのマリアさんの巻(全文掲載)

~2013年7月11日 札幌市にて開催~

OK☆日記でのまとめはこちらをご覧ください
『311・語り場』宮城県からのマリアさんの巻(前編)
『311・語り場』宮城県からのマリアさんの巻(中編)
『311・語り場』宮城県からのマリアさんの巻(後編)

司会:ではこれから、マリアさんの語り場はじめたいと思います。よろしくお願いします。

聞き手:本日初めて聞き手役をさせていただきます、Sと申します。
今回、語り手のお願いから、日にち会場など、すべてコーディネートをさせていただきました。手探りでしたが、充実した毎日でした。ありがとうございました。マリアさんからのメッセージをたくさんの方に聞いていただきたい、と思ってます。どうぞよろしくお願いします。

マリア:先ほどみなさんがそれぞれ自己紹介されてるときに、聞き手のSさんが「ここに集まった人は、それぞれ自分の意志で来てくれた人ですよ」って教えて下さって。その思いだけで涙がこぼれてしまいました。私の2年4か月のちいさなストーリーなんですが、うけとめていただけたら嬉しいと思います。よろしくお願いします。(拍手)

聞き手:マリアさん、ご出身は宮城県ですね。

マリア:はい。私は石巻市生まれです。津波被害の大きかったところですが、そこで二十歳くらいまで育ち、就職した後、親も一緒にS市に引越しました、港町なんですけどね。そこから車で10分ほどの主人の家に、嫁ぎました。
自宅は福島第一原子力発電所から100キロくらいのところにあります。義理の母と夫、長女が4年生、次女が年長、の5人家族でした。

聞き手:3月11日の様子を話していただけますか?

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身体が恐怖で震えた震災当日 ~命からがらの脱出

マリア:はい、ちょうど震災の2年前くらいに、夫とその弟が会社を起こしました。弟は大工で、夫は内装デザインをしていたので、建築系の会社を興したいと、私も前の会社を辞めて3人で、小さなプレハブの2階建てと倉庫で、商業施設(洋服・飲食)などのお店やその家具を作る工場をやっていました。何も分からないところで始めて、ようやく2年が経つころに、311の地震がきました。

そのとき私は、プレハブの2階で事務作業をしておりました。夫が宇都宮に3時に出かけるというので、たまたま戻ってきていたんですね、工場に。で、2時46分に揺れ始めて。

宮城県て、すごく地震が多いんですね。宮城県沖地震を小学校2年生くらいのとき経験していましたし、宮城県沖地震は今後起きる、起きるっていわれていまして。だから最初の頃は、大丈夫大丈夫、なんて思ってたのですけど、揺れがすごく長くて、だんだん大きくなっていったんです。

最初、ウォーターサーバーと観葉植物を押さえていたんですけれど、下から夫と大工さんが走って上がってきて「何やってんだ、そんなのいいから早く降りろー」って。宮城県弁で(笑)。
それで降りたんですけど、プレハブの階段て手すりもなくて、鉄の板が並んでるだけなのですが、降りてる最中、揺れがものすごかったんですよ。それで階段が地面から外れて、弾き飛ばされたんです。3~4段跳んで、大工さんの上にふわっとおぶさる感じで落ちたんですね。

揺れはもう、置いてあった電子レンジが吹っ飛んでくるくらい。
パパがそれをよけたら、バンと落ちて。それ見て「ここにいたらダメだ、全員死ぬ」と思って必死で。でも出口が、材木が山積みに倒れていてふさがれちゃってて。それをよじ登ったのですが、床に落ちたときに落ちどころが悪かったんでしょうね、腰までビーンと来るくらい痛みがあって。骨にヒビが入っていたのですが、それでももう、みんなを巻き添えにしてここでつぶれたら大変だと、命からがら脱出しました。
その材木の山を登って、外に出た時もまだ揺れていて。身体がもう恐怖で震えていて。
怖くて怖くて歩けないから、ベニヤ板の上に座らせてもらいました。

大工さんは「生まれたばかりの子がいるから帰りますわー」って車で帰ったけど、大渋滞になってまして。その後、30分から1時間の間に津波が来たんですよね。大工さんは、波がきた中、渋滞してたので歩道をぐぁーっと走って何とか間に合って。
そんな状況でしたけど、私のまわりでは幸い、亡くなった方は誰もいなかったです。そんな中で地震が治まって、とりあえず家に帰って、1時間ぐらいはそこに集まっていました。

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(マリアさんが被災した事務所の中。(震度6の揺れの中、この階段から落ち、右足の骨にひびが入りました)

生きててよかった! 暗闇の中、母を迎えに

聞き手:子供さんたちの安否が確認できた後、実家のお母様がS市におひとりでいらしてたんですよね?

マリア:そうですね、S市に越していた実家はその時父が不在で、母がひとりで自宅にいることが心配で。子供たちの安否を確認して保育園に迎えに行ったあと、夜6時には停電で真っ暗なんですよね、3月だから日が早くて。私は実母が実家に1人でいることが分かっていたのですが、自分の足は動けないから、パパに心配なんだよねって言って。
実家まではトンネルを抜けてくルートなんですけども、トンネルも怖いんですよね。トンネルに入ってるときに地震が起きたらどうしよう、と。それで「トンネルに行かないで。俺行ってくっからなー」ってパパが6時半頃、暗い中を行ってくれたんですね。

そして、実家に着いてピンポン鳴らしても電気がきてないから、鳴らないんです。で、入って行って。
パパが「おかあさ~ん」って探しに行ったら、2階の自分の寝室のベッドで真っ暗な中座ってたんです、ひとりで。。。(涙をぬぐうマリアさん)

パパは、何かその姿が忘れられないって。助けに来てくれたパパの姿がね、母にとってはどれだけありがたかったかなって。それでパパが家に連れて来てくれて。そのときってね、もう会ったらハグですよね。「生きてた、よかった!」って感じでしたね。

無事だった姉一家とも再会

マリア:うちは姉がいるんですけど、絶対母を心配してるだろうから、ってメールを一生懸命送りました。「母は、うちにいるから」って伝えたいんですけど、つながらないでしょ。どうやって伝えようって。もし心配して迎えに行って何かあったら、また心配だしと思って。

NTTの伝言ダイヤルもさっぱりつながらなかったですね。ラジオだけが安否情報を流してくれてました。そこに流してもらおうと電話するのですが、つながらない。夜中の2~3時くらいにようやくつながって、20文字だか何文字だかで言ってくださいって言われて。「〇〇家は全員無事です。母も一緒です」って一生懸命言って。それが流れたのが次の日の昼でした。
順繰り、順繰りに、どこどこの誰々さんあてのメッセージです、ってずーっとずーっと流れていました。そんな中3時~4時くらいに寝てしまったんですね。リビングのソファでみんな肩寄せ合う感じで。
そしたら、コンコンって。パッと見たら、お姉ちゃんが立ってるんですよね。

「え~」って言ったら、仙台空港にすごい津波が来たのですが、その近くのイオンモールで買い物してて閖上大橋を曲がって、そのあたりもそのあと津波がかぶったんですが、彼女たちは切り抜けたんですね。それで渋滞にはまって。結局は帰路の途上、路肩に車を停めて一晩明かして、それから来たんだって言っていました。

聞き手:マリアさんのご親戚やご家族は、みなさん亡くなることもなく、というのはお聞きしていたのですが、ほんとに命が紙一重なんですよね。毎日毎日、誰かの命を願って、聞いて。宮城の方は、穏やかな海も知っていて、まさかっていう思いでこの状況を見ていたのかなと思うと、本当に胸が痛かったです。

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45号線をへだてて海側は地獄、山側は天国 ~被害のギャップ

マリア:そうですね、紙一重っていうか、45号線の道路をへだてて、こっちは地獄、こっちは天国、なんともない感じでした。多賀城から歩いてきて佐沼まで帰るって方が、次の日かな、R町でおにぎりとか食べさせてもらって「ここは天国だなぁ」って言ってたって。
佐沼ってけっこう県北なんですよ。そこまで、どうやって帰るんだって感じでね。車も走ってない、走れない状態だったですけどね。
私が住んでいる場所は、意外に何事もなかったような感じだったので、そのギャップはすごかったです。

聞き手:その毎日の中で、原発事故の話は?その頃のマリアさんはテレビも見られなかったでしょうから……。

マリア:新聞だけでしたね。

聞き手:爆発のことは?

マリア:新聞でなんとなく知ってたけど、何かね、そっちに心をもっていく余裕がなかったです。その頃友達から「雨に当たらないように」ってメールも来たんだけど、よくそういうメールをくれる方だったのでね、「またか」って。
なるべく雨に当たらないほうがいいんだろうけれども、うちには弟の5人娘も避難してきていて、奥さん入れると7人かな。12人で1か月くらい一緒に過ごしていまして。私は動けないのだけれども、水を公園に配給にきたよーって聞くと、子供たちが大五郎のペットボトルを持ってね、みんなで行ってくれるんですけどね。たぶんそういうときで。

爆発していたんでしょうけど、「雨に当たるな」とも言ったけど、あのころは私も、宮城県と福島県の間に、見えない壁があるような安心感を抱いていました。勝手にね。

聞き手:きっと壮絶だったんじゃないかなと思います。そういった現実があったことを分からなきゃいけないんじゃないかと思いますし……。

大きな余震で、事務所が使えなくなり、移転

マリア:宮城ならではの苦悩もありますので、宮城県のお話もみなさんに知ってもらえたらなと思っています。
その後、1か月くらいして仕事も復旧してきたなぁという頃、また4月7日に大きな、震度6くらいの地震があったんですね。震度6を超えると、停電になっちゃうんです。水もストップします。震度5だと動かないけど、震度6だと自衛隊も速攻で動きますね。

4月7日は、前の揺れと違って、回るような感じだったんですよね。ぐるんぐるんって。
「またガソリンが足りなくなる」って思ったりして。10リットルくらいづつね、並んでお金出せば入れてもらえた頃でしたけど。

聞き手:その大きな地震で事務所がついに……?

マリア:ついに。最初の地震から、私は2階にはあがれなくなってたんですけど。足が動かないし、怖くてね。ただ仕事はけっこう来るんですね。東京とか大阪とか全国各地の仕事を請け負っているので、やらないわけにはいかないので、工場は動いてたんですよ。
ただもう、4月7日の地震で、蛍光灯ブラブラしてたのを仮止めしたものも外れたりして。

4人くらいの従業員がいて、その家族も守らなきゃいけないし、私はその事務所は怖くて仕事できないから「もう違うところ探そうよ」ってパパと弟で一生懸命探して、うまいこと見つかったんです。扇町っていう工業団地の中に、まあまあいい事務所と工場があってね。5月の頭に引越しできまして、そこでまたスタートで。設備も動かしたりして。それでようやく、私の中ではちょっと落ち着いたんですね。

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弱音を吐けないつらさを、救ってくれた歌

マリア:その頃にFMをかけると、いつも流れている曲があって。宮城県の方なら耳にしたことあると思うんですけど、気仙沼出身の熊谷育美さんって方が震災の1か月か2か月前に作っていた曲で、避難所などでみんなの心を支えたんですね。その曲を、聞くたびに私は涙がこぼれちゃうんですよね。ちょっと聞いてもらってもいいですか。

~「雲の遥か」(熊谷育美さんの歌)を会場全員で聴きました~

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マリア:ありがとうございます。FMでね、毎日かかっていたんですよ。宮城県は1212箇所の避難所が4月にできあがったのですが、まだ4月5月6月は仮設住宅ができてないので、みんな学校の体育館とかで肩寄せ合って生きてるんですよね。リクエストした人たちは、この曲をどんな思いで聞いているのかな、とかね。

「もしも弱音を吐いたなら」っていう優しさがね。あのとき宮城県では家族を失った人や、家をまるごと流された人や、そういう人たちが本当に大変な思いだって分かっていたので、少々のことで自分が大変だって言えなかったんです。みんなそれぞれ大変だったんですけど、言っちゃいけない気がして。悪い気がして。

だから「弱音を吐いて受け止めて」っていうメッセージが響きました。私もそれなりに必死だったけど、でも誰も死んでないし家も大丈夫だしね、そんなこと言えないって思うんだよね。
それを応援してくれて、宮城県ではすごく流れててね。紅白歌合戦出るんじゃないかって思うくらい流れてましたけどね。あれ、ダメだったなって(笑)。

エッセンシャルオイルの先生Uさんとの再会

マリア:私地震の前から、エッセンシャルオイルで心が救われていたんですね。
下の子が1歳のときから義理の母と同居したので、6年か5年前かな。同居を始めてから、家事と子育て、フルタイムの仕事、親戚の介護と相続の手続き、事業の立ち上げなど、目まぐるしい生活の中で、自分より家族を優先させてしまう日々だったので、すごく心のバランス崩してたんです。本当に、死んでしまいたいなって状況だったんですね。

それが地震の1年前くらいに、エッセンシャルオイルと出会い、Uさんというセラピストさんとも出会って心を前向きに変えてくれました。Uさんは震災後、札幌と宮城を行き来し、ボランティアで何千本ものアロマスプレーを作って避難所に送る活動をされた方なんですけどね。
4月8日、余震の翌日、お昼に空を眺めていたら、すごくUさんのことを思い出して。車で5分くらいのところにひとりで暮らしてるから、大丈夫かなと思って「大丈夫ですか」ってメールをしてみたんですね。そしたら、たまたまメールがつながって、「札幌に行きたいのだけど、電車動かず仙台まで行けない」って返事がきて。

大きな地震のあとでしたが、急に背中を押されて「この人助けなきゃいけない」って思いました。「私、命助けられたし」と。子供たちいるんだけど、義理のお母さんに「オイルの先生を仙台に送って来るわ」って言ったら、すごい顔して「何言ってるの」って感じだったんですね。でも、「私行ってきます」ってね。また次大きな地震がいつくるか分からないドキドキの中、子供と一緒にいたいんだけど、何か彼女を送らなきゃいけない使命を感じて、迎えに行きました。

マンションでの6階でした。エレベーターが止まっていて、足の骨にヒビが入って1か月だったので、足をひきずりながら階段を上って。「Uさん大丈夫?」って行ったら、わ~ってなって。それで「荷物まとめて。札幌に行くなら送って行くよ」って、仙台に送って行ったんです。

「大変なことに多いも少ないもない」Uさんの言葉に、初めて泣いた

マリア:仙台の友達のサロンに着いて、Uさんが足のマッサージをしてくれたんだけど、そのときにね、何か感じ取ってくれたんだよね。
「大変に少ないも多いもないから。自分が感じてることで十分大変なんだから。怖かったね……泣いていいんだよ。」と痛む足をさすりながら声をかけてくれました。
私はその時初めて声をあげて泣きました。

そしてね、「こういうときは、遠慮してる場合じゃないから」って、1万円くらいのオイルセットを手ににぎらせてくれて。ちょうど、輸送も全然だめで、オイルが届いてなかったんですよ。「これも持っていきな、これも持っていきな」ってね。助けられました。

その後彼女は、札幌から、殺菌作用や、リフレッシュ作用があるオイルスプレーをみんなで何千本も作って被災地に届けてくれてね。2年間やったかな。宮城県育ちだったんですけどね、「自分はこっちじゃなくてあっちから応援する」ってね。
そのUさんがね、「メルトダウンしてるんだからね!」って私に情報をくれたんです。放射能を気をつけなきゃいけないんだって教えもね、彼女からだったですね。

聞き手:宮城もすぐそばだから、子供たちにマスクをさせなくちゃ。がれきからの感染症にも気を付けてって、メッセージをくれたのも、Uさんだったんですよね?

マリア:そうなんです。いつも彼女は、新しい新鮮なメッセージをくれる方でね。あぁ、ガレキ!感染症!ってね。でも子供たちにね、マスクしろって言ってもしないしね。特に宮城県は。

聞き手:このころ4月なので運動会とか?

マリア:運動会も土埃の中を走らせてね、大丈夫なのかしらって思うんですけどね、誰も何も言わないし。自分一人では言えないし。プールもはじまりますよって、プールの水調べて大丈夫でした、とかね。それで入れました。

聞き手:そんな中、マリアが今回みなさんに伝えたかったスコップ団のお話があるんですよね?

Uさんに教えてもらった、泥かき隊「スコップ団」のこと

マリア:宮城県仙台市の平了さんって男の方が興した、スコップ団っていう団体があるんです。チームOKのAさんも、スコップ団に参加してくれたことがあったんですよね。北海道や全国からたくさんのボランティアが来てくれてました。

聞き手:スコップ団というのは……?

マリア:Uさんが8月くらいに「ここのブログ、すっごくがんばってる人たち。励まされるよ」ってブログに書いてるのをみて初めて知ったのですが、スコップ団自体は4月くらいから活動していました。平了さんって団長さんが、大切なお友達を亡くして、その怒りと「なんでこんなことが起きてしまったんだ」って想いとで、自分ができることをってはじめたんですね。

その方はその前から、ブログですごく人気のある方で。一声かければ、支援物資が倉庫にわんさか届くような人だったんですよね。で、震災直後で自衛隊の車しか走ってない中、自分たちで物資を届けに行ったり、ガソリンを何リットルも買いに行って、石巻の日赤病院とか東松島とかに配ったりしていました。

ドライアイスが足りないと安置所で聞いて、ドライアイスを集めて届けたり。震災直後の3月4月、だんだん温かくなってきたんですよね。遺体ってきれいなままの形じゃないんですよ。津波ってものすごいパワーなので、きちっとした体ではない。そういうのがたくさんある中、ドライアイスが一度も届いてない安置所っていうのもあったんですよね。

この間までコンサート会場だったようなところとか、普通のところで、市の職員が安置所の世話をしていたりする。で、臭いもきつくなったりする。でも、やっぱり、子供を見つけて抱きしめる親もいる。そういう親御さんを見て、「もっとドライアイスが必要だ」ってブログに書いて。大阪の会社が、じゃあ俺のとこからドライアイスを送るって、ルートを開設したりとか、そういうすごいことをやってる方だったんですね。

スコップ団ていうのは泥かき隊なんですけど、石巻の方はボランティアがたくさんきて、泥かく人もいたんです。ただ県南の福島との境の山元町っていうところが、夏ぐらいまで避難区域だったんですね。宮城県の中でも。で、一般の人は入れないんですけど、親戚や友達だって言えば入れるんですね。「山元町はボランティアも入れない、じゃあ俺たちが助ける」って入って行った。それが4月くらいからですね。

最初は、団長さんの亡くなった女友達の家にお子さんが3人いて、津波の跡を見せ続けたくないからってきれいにしてあげたんですね。そのうち、頼むよ、頼むよってだんだん依頼する家が増えて行きました。で、山元町がスコップ団の活動の拠点になったんですけれども。

マリアさんもスコップ団の活動に参加

マリア:私は9月くらいから参加したんです。
団長さんの「土曜日9時山下駅な」っていう合図とともに全国から人が集まってきていました。
大阪、福岡から毎週のように通ってくる人たちもいたんですね。
最初は20~30人くらいだったのが、私が通ってる頃は50~70人くらい。土日の活動だったんですけれど。

どんな活動をしていたかっていうと、津波が押し寄せた家というのは、1階の窓から全部ぶちぬかれて、カーテンビラビラになっていて、土砂とガラスと家の物がゴチャゴチャに土の中にあるんですね。で、天井のちょっと下まで、津波がきましたというラインがある。

スコップ持って、いくぜって今日のお宅に行って。まず家の中にある紙、布、全部分別をしないといけない。嫌がらせのように20種類にもごみを分別しなければいけなくて。あとガラスとか。最後に土をかいて、壁を壊して、柱だけ位にするんですね。

大切そうなものは大切そうなものの山に持って行って、そこで家主さんに選んでもらうんです。最初は「何もいらない。」って言ってた家主さんも、「これがあったよ。」って持っていくと、「これがあったんだ。」って、とっておくらしいんですね。

それを見てるから、スコップ団の人は黙々とね、大切そうなものと、ごみと、って分けていくんですよ。冷蔵庫なんかはね、3月11日のままです。その日の夜にお誕生日をしようと思っていたケーキとか。

みんな誰も、その日、その時間に死ぬなんて思ってないですから。そういう中身とかもね、苦しいけど片付けました。すごかったですよ、蛆虫がね、ダンゴ虫くらいになってました。それを片付けたりね。もう、本当にきれいにするんですね。

そこでは、あなたが何やってね、っていう指示はないんです。行って、自分がやれそうなことを、自分で選んでやる。みんなそのために全国から来てるから、サッシの桟まで、自分の家でもしないようなところまできれいにしてあげるんですね。本当にね、死に化粧です。
家主さんはね、もう建て直さないって思ってますよ、たぶん。建てられないとも思ってると思うんですけどね。最後にきれいな姿を見せたいという思いで、みんな一生懸命やるんです。

畳をはがすとかね。すごかった。ダルマとかね、紙の物、プリクラ、賞状、そういう紙が浮いて屋根裏にいっぱいたまっているんですね。そういうものもよけて。
2階のものも、バーッと窓やベランダから放り投げて、いらないものを出して。柱だけにして、最後に高圧洗浄機でピッカピカにするんですね。そうするともう、建前ですかっていうくらい、ホントきれいになります。最後にEMをまいて。

「人助けに理由はいらない」スコップ団のポリシー

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マリア:ここに私が背中向けて映ってる写真があるんですけど、私が参加したのは9月で、もうそのとき土日だけの活動になっていました。みんな、自分の仕事があるから。100軒も片付けていたときでした。山元町では勇者、ヒーローでしたね。
でね、大切に丁寧に片付けるから口コミで噂が広がって、おばあさんが位牌を探してくださいとか、大切な指輪を探してくださいとか、そういう依頼が多くて。
「じゃあいくぜ、今日は指輪だってよ、探せ」ってぶっきらぼうな団長さんなんですけど。

最後にね、家主さんがありがとうって涙するんですけど、それを団長は蹴飛ばすようにね、「帰るぞ帰るぞ」って。「大変な思いをしてるんだから、頭なんてさげなくっていいから」って。
「俺たちは、ただ手伝いに来てるだけだし、人助けに理由はないから、ボランティアなんてそんなものじゃない」って言うんですよ。ボランティアでやってやったぜとか、そういう思いの奴は来るなっていう団体でね。

何となく私はその活動に惹かれて参加しました。私は家も家族も無事だったので、だんだん7月8月と、そういうボランティアさんが来ている宮城県にいることが、申し訳ないっていうかね、ここにいて何もしてないっていいのだろうかって思うようになっていて。
こにスコップ団があって、「来たけりゃ来りゃいいじゃん」「ただ来ればいいんだよ」ってね。
団長は、コンビニにたむろしてるような奴らが来る団体にしたいって言ってました。ちょっとカッコよく、斜め向いたような感じで。

団長さんはデザインの仕事していて、グッズがすごくかっこいいんですよ。Tシャツとかいろんなトレーナーとか。そういうオリジナルグッズの売上を活動費にあてていました。活動費は1軒1万円くらいかかるって言ってました、水汲んで、道具運んで、ガソリン代もかかって。雪の降る中2月末まで、片付けました。片付けた家屋は300軒。石巻にも行きました。

石巻出身なのでね。行きたいなぁと思って。石巻はやっぱりつらかったですね。自分の知ってる場所っていうのは、やっぱりまた違うものですね。

そこのお宅は、娘さん2人だったんですけど、お母さんがおうちで亡くなったんですね。お父さんと娘さん。のちにスコップ団に入った娘さんが、スコップ団を知っていて、家を片付けてもらおうよってお父さんに言って。で、行って片付けると、お母さんの品がいっぱい出てきますね、お洋服とかね、そういうのも片付けさせてもらって。

やっぱりね石巻は、すごい瓦礫の山が、続く、続く、続く、なんですよ。もう本当にね、この天井ぐらいまでの瓦礫が、1キロぐらい続いているのかな。そんな中、車が山積みになってね。ちょうど長淵剛さんが紅白で「ひとつ」を歌った学校がね、すぐそばにあるお家でしたけれども。

天井裏
(天井裏まで浮いてそのまま残っていた、手紙、賞状、プリクラなどの分別をしながら、2階の片づけをしました)

聞き手:打ち上げ花火のきっかけになったお話をしていただきたいのですが、その前に、準備していただいた思い出の曲があります。

マリア:震災の前から今井美樹さんが好きでCDをずいぶん聞きました。秋のコンサートで、今までの何十年のベストアルバム2枚組が出たので買って、車でかけていました。その中に、私が避難を決めるとき背中を押してくれた「愛の詩(あいのうた)」という歌があります。今日はそれをかけていただきたいと思います。

~~~『愛の詩』(今井美樹さんの歌)を会場のみんなで聴きました~~~

鎮魂花火「天国へぶっ放せ」企画を伝える手紙

聞き手:スコップ団に参加していた中、圭子さんがあるお手紙を書くことになるんですね。そのお手紙は、団長さんがある1人の初老の女性と出会ったのがきっかけなんですが。その文章を私の方で代読させていただきます。

マリア:団長さんが、花火、鎮魂花火の打上げを企画したんですね。それが6000万円かな。2万人の方が亡くなって、ひとりひとりの鎮魂をしたいというので、2万発あげたいと。予算は募金活動したんですけどなかなか集まらなくて、私と夫で何かできないかと思って。テレビ局に取上げてもらおうと、宮城県内含め、目ざましテレビ・特ダネ・情熱大陸とか11社くらいに送ったんですね。「団長さん、ダメ元で出すから」って。団長さんも「お願いします」って言ってくれて。そのときの手紙です。

「前略
このようなお手紙をぶしつけにお送りすることを、なにとぞお許しください。

私は宮城県に住む主婦です。東日本大震災から9か月、仙台の繁華街などはすっかり元通りになり、何事もなかったかのように勘違いをするほどになりました。しかし、車で10分海岸に走れば、津波の爪痕は今もなお、あの日のままに残っており、津波にのまれた場所と、そうでない場所の温度差がどんどん開き、逆に恐ろしいくらいの衝撃があります。

そんな仙台市を拠点に、県内の津波被害の家を訪れ、5月から今もなお、毎週末清掃を手伝い、片付けた家は200軒を超える、スコップ団という集まりが存在することをお伝えしたく、おたよりをいたしました。

スコップ団の活動は、何か自分にできることはないか、と考える人たちの行動力と、団長が作るオリジナルグッズ(Tシャツやトートバックやポストカードなど)の販売収益、活動を支援する寄付で成り立っています。
それぞれの仕事の傍ら、週末の休みを返上して、見ず知らずのお宅を片付ける。
「困っていれば助けるのが当たり前、人助けに理由はいらねえ」という団長のよびかけに、毎週末50~70人が全国から集まり、津波が襲ったままのお宅で積み重なった家具や衣類を外に出し、床下の泥をかき、壊れた壁をはがし、最後に高圧洗浄機で隅々まで洗浄して、ピッカピカに仕上げ、家主にお礼を言う暇も与えず帰宅する。
団長は、「家を失い、家族を失い、これほどまでにつらい思いをした人に、頭を下げさせたくはない、困っているのを手伝うのは当たり前、結局壊す家かもしれないけれど、きれいな姿をもう1度見せてあげたい、少しでもストレスをやわらげて、気持ちだけでも一歩前進する手伝いになればそれでいい」と、自身のブログで語ります。

「瓦礫」っていうものはない、すべて思い出の品。大切に扱ってくれ、と細やかな気配りで作業を進めるためか、ご主人の位牌や、大切な指輪、母親の遺品、わが子のへその緒など、家主からは大切な探し物の依頼も多い。

団長の強く深く熱い思いと行動力に心を打たれ、今やスコップ団を応援する団員は、北海道から九州まで全国各地にわたり、2000人を越えました。実際、毎週、静岡や京都から夜行バスなどで参加してくれる団員(スコッパー)もいます。

スコップ団団長、平了氏のブログは「どうせ地球のチリだからな」というタイトルで作成されており、1日のアクセス数は70~150万。1冊の小説を読むつもりで3月11日から、ブログを読むと、被災地の生々しい状況、何が必要か、そのとき人間はどうなるのか、本当に大切なものは何かを、感じることができます。」

聞き手:ずっと、このような形で仙台・宮城の様子をつづられておりまして、そのあとに団長さんのブログの抜粋が載っています。

「人が人のために動く、そこに本当の理由は必要ありませんでした。
いつかどこかで友達という間柄になる可能性を否定してはいけない。
もしかしたらそれ以上の家族にだってなるのかもしれません。
生きるということは、もしかしたらですが、死ぬ日までの間、
可能性をあきらめずに努力しつづけることかもしれません。
友達になる可能性も含めた、すべての可能性をあきらめず、
努力することが、生きることのような気がします。
よく耳にする「3月11日を忘れないようにしよう。風化させないようにしよう」
私は否定ではなく、もっと大切なのは、3月10日だと思っています。
上記のような生き方で人のために生きることができていたなら、何の悔いもない。
想いを伝えておこうと思う。

避難所から初老の女性を車に乗せて、私たちの倉庫にお連れしたときの話です。
女性「主人とは喧嘩なんてしたことなかったの。」
団長「そうなんですか、仲良しですね。」
女性「本当の意味での喧嘩はありますよ?議論みたいな。ちょっとした。それがなくなったら人はお終いでしょう?」
団長「はぁ。」
女性「でもその日、本当にくだらないことで、意味のない、感情上の喧嘩をしてしまったの。初めて。」
団長「はぁ。」
女性「彼は車ですごいスピードで出て行っちゃって、行ってらっしゃいも言わなかったし、行ってきますもなかった。そのままぶつかって死んじまえって思っちゃったの。」
団長「……。」
女性「そのままあの人は津波で死んでしまったの。だからね、平一家の家長さん、私のいちばんの後悔は、食料や水を蓄えておかなかったことじゃないの。懐中電灯も何もいらない。もし運命で、彼が死んでしまうことが避けられないにしても、愛していたって伝えたかったってことなのよ。」
団長「……。」
女性「あなたは何でもしてくれる。本当にありがとう。」
団長「とんでもないです。」
女性「でもね、モノじゃないのよ?」
団長「分かります。分かってやってます。俺もそうだ。」
女性「私の想いをいつか、天国に届ける企画を立ててくれないかしら?」
団長「分かった、考えます。チカラもつけます。」
女性「そのときは、私は元気だよって彼に伝えたい…。」

これが「天国にぶっ放せ」の始まりです。お墓へのお菓子やお花、お供えは、合理的に考えれば無駄なことかもしれません。でも、人間だからやるのです。感情があるから、そうするのです。

私たちもいつか死ぬ。そのとき感情が残っているのであれば、私はお供えは嬉しいと感じるだろう。今回の花火は、お供えです。
雲が邪魔をしても、雲の上まで飛ばせば花火は見える。すっと生まれてドンときれいな大輪の花を咲かせて、散る。まるで人生のようです。
咲ききることができなかった方が大半です。だからドンと咲かせよう。
人生のような花火を、いちばん感謝すべき日だった3月10日に。
僕はどうしてもあげたい。」

どうか、このプロジェクトを成功させるため、お力を貸してはいただけませんでしょうか。
スコップ団の存在をテレビの人気番組で取り上げてはいただけませんか。
3月10日の花火プロジェクトを広く周知したいのです。」

聞き手:マリアさんが、このお手紙を書かれたのですね

マリア:そうですね。できることは何でもしたいなぁと思ってね、これを書いて出したんですけど、どこからも連絡はなかったです。そんなもんですよねぇ(笑)
その花火のお金を集めるのに、娘たちは街頭募金とかに寒い中立ってくれましてね。仙台の中央通りの水晶堂の前で、がんばってくれましたね。

みんなの力で5600万円が集まって、花火は無事にあげることができたんです。スコップ団は宮城県の中ではけっこうテレビ放送がありまして、この鎮魂花火の「普通の人は来ないでください」ってCMも流れました(笑) それCM大賞~特別賞~までとったんですけど。「普通の花火ではないんです」と。「大変な思いをした人だけが応募して来れる花火大会なので」って。渋滞にならないようにってそのためのCMも流れましてね。

場所は、泉ヶ岳っていう仙台からほど近いスキー場。山の上で、県内どこからでも見れるところでね。雪の降る中、スコッパーの1人でもあった京都のお坊さんが、袈裟着て、テントの寒いところでお経をあげてくれて、みんなそこに参列して焼香しながら。すごく静かな花火大会でした。最初の花火があがったときだけ、わぁって歓声があがって。
そのあとは最後まで無言。
みんな祈る思いでしたね。

2万人の人が亡くなった事件が1回起きたんじゃなくて、悲しい事件が2万件起きた、そういう思いですね。

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スコップ団の活動で感じたのは、命の尊さ、生きてるありがたさ

マリア:そのスコップ団に参加したとき、近所のすごく仲良しだった友達にも声をかけて、「こういうのに参加しない?」って言ったんですけど、みんな意識って違うもので、全然眼中になかった。その時、私はショックでした。この間まで、一緒に子供のことしゃべったり、バーベキューしたりしてたけど、こういうものはやっぱり違うんだって。そこでちょっと、ひとつ距離というか、自分の中で、ひとそれぞれだって理解できたっていうか。

聞き手:スコップ団に参加して、マリアさんがこの活動から得たものは「悔いなく生きなくちゃ?」

マリア:そうなんですよね。本当に、今日死ぬなんて思ってないですよね、みんな。急に命を絶たれた人の分まで、自分が一生懸命生きなきゃいけないって、スコップ団をしながら感じました。
だから桜が4月に、津波がきたあとに咲いたときには、「こんなときにも桜は咲くのか」って思いました。自然ってすごい、津波をかぶったところでも咲くんだなぁって。で、だんだん活動に参加していって、秋、紅葉になって「あぁ、紅葉を見たかった人はどれくらいいるだろう」とか「芋煮会やりたいと思ってた人はどれくらいいるだろう」とか。

何だろう、ひとつひとつの季節を感じて生きるっていうことを、意識するようになりましてね。私バーベキューとか芋煮会とか、準備面倒なんで嫌いだったんです。
でもなんだろう、そういうの「できるからするんだ」って思って。命あるからできるんだって。
でパパと「芋煮会やろうか」って。会社の人たちと大きい公園で、みんなで集まって、芋煮会をやりました。そうやってひとつひとつ、お正月、クリスマス。クリスマスのときも、クリスマスを迎えたかった子供たちがどのくらいいただろうって、思いましたね。

なので、みなさんには本当に、大切に生きていってほしい。
今、暑い暑いってイヤだって思うんじゃなくて、暑さを感じられるのも、生きてるからですよね。
そういう思いを忘れてたなぁって今回思い出して。ひとつひとつ、生きてるありがたさを感じないとなぁって思ってます。

聞き手:そのスコップ団に参加をする前に、マリアさんが出会っていた方が、神戸に住んでいらっしゃった……?

夢だったハワイ島のドルフィンツアーに参加

マリア:神戸にいらっしゃるセラピストさんのホームページを、3年くらい前から毎日見てました。ハワイ島で野生のドルフィンと泳ぐツアーを企画してる方で。そのHPがとっても素敵で、いつか参加したいなと思ってはいたものの、義理のお母さんとの生活で、そんなワガママなんて許されないと思っていたんです。
スコップ団に参加するってお母さんに言うときもドキドキだったんですけれど、でも何か、これには参加しなきゃいけないって思って。「お母さん悪いんですけど、これに参加したいんです。こういう活動なんです。申し訳ないけど、土曜か日曜、どっちか参加したいので、子供を見ててもらえませんか」って言ったら「あぁ分かったいいよ」って言ってくれてね。

そうやってスコップ団に通ってるうちに、なんだろう、本当にやりたいことやってる時って、すごく魂が輝くんですよね。何かそれを実感・体感したんですけど、命っていつ終わるか分からないなって思って。

ドルフィンツアーにも、どうしても行きたいって思いまして、見切り発車で申し込んじゃったんです(笑)。とうとう、お金を払いこまなきゃいけない秋になって、お母さんに言わなくちゃいけないなあって。夫は何でも私に賛成してくれる優しい人なので「こういうの行きたいんだよね」って言ったら「いいんじゃない」って。でもネックは義理のお母さんで。心臓バックバック飛び出しそうなくらい。「お母さんお話があるんですけれども…」って言ったら、お母さんびっくりしちゃって(笑)。
何が飛び出すのかって顔されて。それでも言い出せなくて、もじもじしてたら「何なの?」って。
で「一人旅に行きたいんです」って言ったのかな、あ、「修行に行きたいんです」って言ったんです(笑)。

そしたら、「お遍路さん?!」って言われたんです。
「いやいや、お遍路さんではないんですけども、ハワイ島に…」って。でも、半分ほっとしてたらしいですよ。離婚を切り出されるのかと思ったみたいで。
それで「ハワイ島?」って、「あぁパワースポットなの?」って。私がそういう世界好きなの知ってて、お母さんもけっこう嫌いじゃないんですよ。「そうなんです」って、「命いつ終わるか分からないんで、私参加したいんですよ」って言ったら、「ん、いいよ。私だってまだ若いんだから、子どもも見てるから。どのくらいよ?」って言われて。「1週間か…10日くらいですかね。」「あらいいわよ」なんて。
いいって言ってもらって、私そのとき涙あふれてあふれて、ひとりで2階にあがって、しばらくひとりで泣きましたね。「許された、愛されてるのかなこの人に」って思ってね。私の中での、大きなタイミングだったんですけれど。
それで、ハワイ島のドルフィンツアーにね、2月26日から参加しました。

聞き手:打ち上げ花火の前なんですよね?

マリア:そうなんです。3月10日が花火なんですけれども、2月26日~3月5日までドルフィンツアーでハワイ島で過ごしてきて、帰ってきてすぐ花火だったんです。

「愛以外は手放します」と宣言してハワイ島から帰国

マリア:野生のイルカは本当に優しい、もちろん水族館のイルカも優しいんですけれど、一緒のスピードで泳いでくれたりしてね。家族でいるんですよ、小さいのと大人と60頭くらい。私はぷかぷかシュノーケルで浮いてたんですけど、「きたきたきた、行っちゃったな~。」って思うとまた近づいて来て。見たら「下にもいる~!」って。
海って、プール位の深さじゃないんですね、底の底のずっと底が見えない下の方にも泳いでて。海の世界って、もうひとつの地球のまた別の世界があるのかなって思うくらい。自分の知らない世界があるんだなぁって。
でね、真っ青な水の中で太陽の光が差し込む、その光の筋がすごくキレイで。イルカの周波数と声がね、ピーッピーッて。ソナーっていうんですけど、それを浴びると人は本当に魂の奥底の本来自分のもの、それを思い出すっていう企画なんですけどね。

15人くらいが全国から集まってきていて、そういう体験とワークショップを、素敵なリゾートハウス一軒家を借しきってやってました。最初は、被災地から来ましたって、ずっしり何か背負って行ったんですけど、最後帰るときにはすべて解きほぐされて、「愛以外は手放します」って言って帰ってきたんです。

イルカ

誰かが決めたルールや、制限や、女や、妻や、大人であるとか、そういうものすべて、自分が自分で制限しているものを、もう解き放っていいんだってね。本来、生きるっていうのはどういうことなのか、とか、そういうのを体験して「ただいま~」って帰ってきたときに、義理のお母さんに対して、感謝しかなかったんですね、もう。
「お母さんありがとう」って、「ほんっと楽しかった!」ってハグしたら、お母さん喜んで、あれれれ~って(笑) もうね、それぐらい自分もオープンハートになって帰って来ました。

今でもね「マリアさん、ハワイ島から帰ってきたら変ったわね~」なんて。だいぶ、なんでしょう、遠慮とか。遠慮=壁ですよね、それが外れたのかなと。私にとって、すごくいい体験をしてきました。
そしてスコップ団の花火が打ちあがって、一段落だったんですね。花火でスコップ団はいったん、活動休止になるので。あと「何かあったらいざ鎌倉だ」っていう状態のスコップ団なのですけど。

聞き手:そのあとですね、いよいよ札幌避難に向けてのマリアの変化……。

震災から1年経つ頃、「子供を守りなさい」とメッセージが

マリア:今までので、1年経ってしまってね、私は放射能のことに関してはほとんど気にしてなかったんです。恥ずかしながら。で、スコップ団に参加したUさんと街中歩きながら「宮城県て誰も気にしてないよね」って。本当だなぁって思っていたんですけど、「離れてみれば分かるよね」なんて彼女は言ってて。
彼女は日本全国飛んで歩いているけれど、私は宮城県から出たことがなくて。
でもハワイ島に行ったらね、日本地図が目に浮かんできて、福島がピコンピコンて。宮城県はほんとにすぐそばで。宮城県すぐそばですよ~っていう映像が私の心の中に出るんですよ。

それで車を運転していたら「子供を守りなさい」っていうメッセージが何か心に響いたんですよね。「えっ」と思って。愛だけしか残ってないので、子どもへの愛がそこでちょっと開いて。急に気になり始めました。

花火が終わって、3月の中旬から4月までの半月ぐらいなんですがインターネットを見まくりました。弟も「いやこんな状態なんだ、4号機ってこんなになってるの」って今頃知ったくらいの無知な状態でした。宮城は地震もまだ毎日あるんです。震度3~4だったら驚かないくらい。この地震であのボロボロの原発がどうなってるんだろうって思い始めたら、怖くて怖くてね。
いや、こんなところに私はいたくない、子供をいさせたくないって思い始めて。
なぜここにいなきゃいけないんだ、何を守ろうとしてるんだろう、家なの、仕事なの、家族って何って、自問自答が始まるんです。

聞き手:ずっと調べ続けて、きっと…ああいう感じだろうなっていうのは、ここに避難していらっしゃる方は分かるでしょうけれど。

マリア:仕事も手につかない。初めてでしたね。私は経理事務をやっていて、毎月会計監査を受けるんですが、税理士さん来て下さる日までに終わらないんですよ。それをごめんなさいって伸ばしてもらうのも初めてで。でも頭がこっちにいこうとしても頭が動かず、放射能のことだけは身体が動くんですね。不思議ですね、ああいうときってね。

聞き手:そのときに調べて、避難をするっていうのを決めて?

4月初旬「あったかい道ハウス」に来道

マリア:そうですね、どこにいこうって考えたら、ハワイに行きたいって(笑)。この地球上にこんな楽園があるのかって思ってたので。天国から地獄に帰ってきたように感じていたので。
「いや~私子供つれてハワイ行きたいわ」って言ったら、パパが「そいつは遠すぎだべ」って(一同笑)。あんまり否定しないんですけど「ちょっと遠すぎだべ」って(笑)。
「そうよね、やっぱり」って。で「俺は北海道好きだし」って。で、調べたら北海道、すごく支援してくれる団体もいて。会社…工場も広げたいから、北海道にも作ろうか、そしたら一石二鳥だねなんて話があって。

じゃあどんな支援を受けられるかって調べたら、北海道の雇用促進住宅がウェルカムだったのでね。うちは被害は少なかったのですが、罹災証明だけはもらってたんですね。で、罹災証明があれば雇用促進住宅に無料で入れるねって。どんなお家なのか見に行こうかなって。

そこで、「あったかい道ハウス※」ってあるんだ、すごいなって。北海道にも、スコップ団団長の平了さんみたいな人がいるなぁって、湊源道さん※のことを思ったんですね。ゼロから、支援だけを一生懸命しようとしてくれる方。

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(あったかい道ハウスの様子。現在は休止中です。一時保養、避難希望者の下見滞在の宿として、無料で提供して下さっていました。チーム☆OKのメンバーがたくさんお世話になってきました。)

その頃ハワイ島から帰ってきていて強いですから(笑)、4月ごろ急に「お母さん、ちょっと私、北海道に行ってくるわ」って。近いですよね、ハワイ島よりね。
その土地を感じてみようって。そこで自分が何を思うか、頭で考えても、インターネットの画面で見ていても、分からないからって言って。
4月頭の春休みですね、電話で「あったかい道ハウス」に泊まりたいんですけどってお願いして、子供2人連れて飛んできたんですね。誰も何も止められない、文句も何も言えない状態ですよね(笑)

千歳空港にたどり着いたときの、何でしょう、あのはぁ~っていう解放感・安堵感。空気もきっと大丈夫でしょうし、食べ物も北海道産が並んでるし、ものすごくホッとして。
子ども2人連れて北海道庁と、札幌市役所に行って、道営住宅見て、雇用促進住宅見てね。パパが最後の方、出張から来たので、一緒にレンタカー借りて見てまわって。いまの団地を見学させてもらったら、眺めがよくてね。エレベーターもついててね。あぁいいなぁ、いいなぁ、って。いいな、って感じで帰って行ったんですね。

札幌移住への決断

マリア:あと決断するのは自分だな、って感じで帰って行ったんですね。私が行動を起こさなければ、この子たちは誰も守れないって思って。私だけの判断で命が変わるんだったから、迷う余地はなかったんですけど。
4月に入りまして、家庭訪問が4月末にあったとき先生には言ったんですね。下の子は入学したばっかりで、近所の子も一緒に入学だねーなんて言って。子供も学校に慣れた頃だったんですけど。担任の先生に「私、放射能が気になるんで、札幌避難を考えているんです」って耳に入れておこうと思って言ったら、「そうですか、去年1組いました」って。で、「残念ですけど、命に代えられませんよね」っていう感じで。子供たち両方の担任の先生には伝えて。

あとはいつ行くか。夏休みか、7月1日かって、ひとりで悶々と考えていた感じです。4月の授業参観があるんですけど、パパが出られる小学校の参観はこれで最後だって分かってたから、一緒に帰るときの写真ですね。この写真。

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聞き手:母子避難を決めてから最後の参観日ですね。

マリア:最後の参観日ですね。切なかったです。写真、撮っておくものですね。上の子が6月末の野外学習を楽しみにしていたので、それに参加させてから…。

聞き手:7月1日に、いよいよ、札幌市の団地に母子避難された?

マリア:さっき流れた今井美樹さんの曲を聞いて。「今その目にうつるものは何ですか。たったひとつだけの大事なものならば、恐れないで」っていう歌詞がね。家とか仕事とか、代わりはききますから。たったひとつのものって何だろうって思ったら、命だなって。急にその歌詞が私に飛び込んできて。もう行かねばいかん、よしっと運転しながら腹をくくった、そんな曲でした。

聞き手:その7月から今で、ようやく1年なんですね。聞き取りをさせていただいてびっくりしたんですけど。マリアさんと一緒の時間がもっともっとたくさんあった気がするんですね。
実は、酪農大で「おんたの音楽祭」に参加されたのが、札幌に来てまだ3か月だったんですね。

もう友達はいらないと思っていた移住初期

マリア:そうですね、まだあんまりお友達はいなかったんですけど。そう、来て早々は、もう友達はいらんと思ってましてね。やっぱり近所の友達が、スコップ団にも何の反応もなく、私が札幌に行くわってときも「え~」ってなったんで。
「無料で借りれるから、子供の健康心配だから行くね」なんて言って。もうどう思われていいなって。私が行くことによって、この人たちが少しでも放射能考えてくれたならそれでいいやって思って「まだ間に合うのなら~私の書いたいちばん長い手紙」っていう、チェルノブイリの1年後に一般主婦が書いた本があるんですよね。それをその頃読んで、みんなに1冊づつ配ってきたんですけどね。

子供たちがつなげてくれた素敵な出会い

マリア:友達もね、心を開ける友達じゃなければ無理に付き合わなくていいんだ、なんて思っていて。で、挨拶もそこそこにいたんですけど、子供たちがつなげてくれたんですね。素敵な出会いを。
SHGっていうダンスチームがあるんです。7月1日に来たんですけど、ちょうど7月くらいからそのチームができたんですよね。同じ学年のNちゃんが誘ってくれて。うちの上の子と下の子と。すぐそこに馴染ませてもらって。すごく楽しそうに始まって。それまで親子でフラとか一緒にやってたんですよ。だけどヒップホップみたいなダンスがね、AKBも大好きだったので、楽しくて楽しくて。

ほんと、これがなかったら、帰りたいって言ってたかもしれないけれども。そういうこと全然、言わないし。「あぁ助かったしよかった」って思って。先生方も、北海道のお父さんだと思えっていい方たちで。「ようこそあったかい道」でも踊らせてもらって。子供たちの心を今なお、支えてくれてますけれども。
その中で、チーム☆OKのTさんとか、KちゃんとかHさんと友達になって「おんたの音楽祭」に誘ってもらって。ちょっとお客さんな感じで参加して。

チーム☆OKの『311・語り場 第1回』に参加して

聞き手:翌年2012年1月の語り場、仙台のMちゃんの語り場に参加したんですよね。
『311・語り場』宮城県からの奈々さんの巻

マリア:そうですね。Mちゃんの存在は私の中で、もう本当に輝きっていうか。
同じ宮城県からね、あの2011年の4月に行こうと思う人なんかね、どれだけもいませんよ。本当に。
あの中で、アンテナを高くして「まずい、行こう」と思う彼女、そしてこんなに可愛いらしくて若くてキャピッとしてるのに、チームOKの副キャプテンも務めてる。

それで心の言葉が少しづつ、とつとつと出てくる語り場に参加して、「こんなに頑張っている人たちがいて、なんて素敵なところだろう」って思ったのと、自分にも何かできないだろうかって思い始めたんですよね。

私は癒しの世界が好きなので、落ち込んだときっていうのは、エッセンシャルオイルだったり、スピリチュアルな考え方だったりで、自分で調整できる手段があるんですね。
でもまわりのお母さんたちが、元気がないよって話が耳に入ってきてて、単にお茶のみだけでは解消されなくなっている、避難も長引いてきてるし。

私も同じ立場にいて分かることもいっぱいあるし。何かそういうので、少しお手伝いできたらいいなって思っていたときにAさんと出会えて。そして、癒し隊のメンバーのHちゃん、Yちゃんともね。語り場が終わったころですよね。

『サロン・ド・OK』を開催 ~お母さんたちが笑顔になってくれる幸せ

マリア:語り場に何回か参加して、みなさんこんなに自分のこと一生懸命勇気をもって言ってくれて、その勇気に励まされてね。私にできることを考えていたときにね、ちょうど「癒し場やりたいって思ってるの」って話があって。
みんな避難で来てるのに、腰も痛いのに(笑)、体調もままならないのに。
じゃあそれに私も参加させて~ってムリムリって入っていって。Aさんをずりずりっと引き込んで、癒し場、チーム癒し隊っていうのを作らせてもらったんです。チーム☆OKの中に。
それで、活動したのが2012年の4月…5月…6月ですね。

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聞き手:4月から癒し隊として活躍されていますね。お帰りの際にお渡しする資料に「マリア語録」があるのですが、今子育てをしている私たちにマリアさんからのメッセージが本当にいっぱい書かれていて。これからの機会にも、ぜひ癒しの話をしていただきたいのですけど。
いったん、ここで語り場の「今に至る」の話はここまでにさせていただいて……。癒し隊の活動はどうですか?一昨日ですが。

マリア:『サロン・ド・OK』で第2火曜日にお茶会をやってるんですけど、癒しコーナーも2つ3つ、用意してるんです。この前、Aさんはカラーセラピーといって、カラーボトルを並べて1人1人にメッセージを伝えてくださって。私の師匠でもあるUさんは整体調整をしてくれたり、私も習いたてのハンドマッサージをしながら。それがね、私にとってすごく幸せな時間なんです。その後ってすごく子供に優しくて(笑)。
本当に私の中で嬉しい、喜び。みなさん、お母さんたちはもともと女神だと思っていて。愛の行動をしてきてここ(札幌)までやってきた、それだけで素晴らしいんですよね。そのお母さんたちが笑顔になってくれるのが、私にとってはすっごく嬉しくて。

お母さんが笑顔になれば子供も笑顔になる、と伝えたい

マリア:なので、子供の為にってここまで来たけれども、逆に私は新しい人生をスタートさせることができています。物事にはすべて二面性があるなって思うんです。いろんな、大変なことが起きたけれど、それがなければここにこうやっている奇跡はないわけですし。出会うこともなかったし。なので、みなさんにお伝えしたいのは、二面性があるんですよって。

そのマイナスとプラスの部分。プラスの部分を見ていこうよって言いたいんですよね。もちろんね、放射能はいけないことだし、身体を防御するってとても大切なことですから、それは正しいんです。
でも、それにすべてとらわれないで、自分が楽しいこと、心地いいこともどんどん取り入れてもらうと、それがお母さんの笑顔になるし、子どもの笑顔につながるんですよね。

聞き手:それを……今回、何度もそのメッセージを私にも伝えて下さって。マリアさんが今いちばん伝えたいメッセージが、今その言葉なんじゃないかなって思います。

マリア:お母さんて、我慢しちゃうでしょう。何もかにもやれないことも、着替えもできなかったりする子を世話するって本当に大変だし。お母さんになった時点で、自分のことを二の次にするのが日常になっていくと、どんどん、心が乾いて行ってしまうんです。

で、ある時急に悲しくなったり、落ち込んでしまったりするんですよね。なので、自分の心も、もう1人の子どもだと思って甘やかしていいんですよ。それを、もっともっと。自分に美味しいケーキを買ってきたり、好きな音楽を聞いたり、たくさんそんなことをしてほしい。

子どもがいるって大変ですけど、それをこれからも、伝えていきたいなって思って、いつでも悩み相談、悩みがなくても、お茶飲みに来てほしいなって思っているので。ぜひぜひ。お役に立てたら、こんな私でよければですけど。連絡ください(笑)。

悔いなく人生を終えるために ~マリアさんからのメッセージ

マリア:そして写真の一番最後に、スコップ団のポストカードがあるんですね。3月10日っていう。それを最後に読ませてもらいますね。団長のメッセージです。

「ただいま」とか、
「おかえり」とか、
「今日は遅いの?」とか、
「あとでメールするね」とか。

なんでもない日々の、
なんでもない会話。

【3月10日】は全員、他愛もないことで悩んで怒って笑ってた。

【3月11日】の、
「昨日に戻ればいいのに」
その気持ちは誰も忘れない。

けど、一番忘れてはいけないのは、
今日は【3月10日】なのかもしれないということ。

もしね、明日が最後って知ってたら、
なにを、どうすればいいんだろう?

この景色も最後かもしれないって思えたら、
もしかしたら、もっと人は一生懸命になるのかもしれない。

結局、捨て身で手を伸ばしても、
救えないものの方が多いのかもしれない。

それでも僕は、精一杯ナニカと戦って、
今日という日の終わりに毎日感謝をしようと思う。

そして、好きな人に、
「愛してるよ」
と伝えておくことこそが、一番の防災意識なのだと思う。

3月10日

(スコップ団団長・平了さんの詩「3月10日」)

この死生観ですね。
みんな、あと何十年も命があるかと思うかもしれないけど、だけど本当に何が起きるか分からない。
今日夜しか、明日、命を絶たなきゃいけないとなったら、あなたは何をしますか。自分は何をするだろう。どうしようもないことや、ネガティブなことや、そんなことに、インターネットにとらわれている時間より、子どもと向き合って抱きしめてね、その子がいじめられても立ち直れる強さ、お母さんからの愛情、そういうのをきちんと伝えておくこと。

「あなたが大好きなんです、愛してるんです。」

子どもに対しても、ご主人に対しても、親に対しても、後悔のない人生を送りたいですよね。
だから、謝りたいなと思った人には謝っておいた方がいいし、
ありがとうと伝えたい人にはありがとうって伝えておいた方がいいし。

そうすることが、今を生きること、そしていつ命が終わっても、悔いのない人生だったと思えると思うんですよね。
なので、水を蓄えることや、食料を蓄えることもそうなんですけど、きちんと愛を伝えておくこと、それがいちばんの防災だと、みなさんの心に残ったらいいなと思っています。

ありがとうございました。

聞き手:これで第7回マリアの語り場を終わります。(拍手)

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ご指名感想タイム

司会:ありがとうございました。いろんな思いがあって、いっぱい涙を流されたと思います。おふたりくらい、ご指名で感想を伺いたいと思います。

マリア:では…キャプテン。

キャプテン:チームOKキャプテンの森田です。マリアさん、ありがとうございました。まだ1年なんですね。私と出会った時がまだ、こちらに来て1~2か月で、人と挨拶もしたくない頃だったとは全然思いませんでした。今日はマリアさんから素敵な言葉をたくさんいただいて、救われる思いだった方もいらっしゃると思います。

「大変さに多い少ないはない」。私も、3・11のとき群馬にいて、地震もない地域だったから、地震津波であんな状態にある方に比べたら自分は、っていう思いが常にあったんです。そんな中で放射能避難を考えて来た時のつらさ。もっとすごいものが、マリアさんたち宮城にいた方にはあっただろうなって思って。
でも大変さって、私たちいろいろじゃないですか。立場が。道民の仲間もいて。福島原発のうんと近くから逃げてきた方もいて。
でも、大変に、多い少ないはないですよね。それぞれの大変さが、本人にとっては絶対で。
お互い立場は違うけど、こうやってお話を伺えることで、同じにはなれないけど、分かり合える幸せをすごく感じました。

今日来てくださったみなさんにね、感謝をしています。感謝できる自分の状態にも、とても感謝をしています。
来てくださった方でね「話聞くだけで何もできないの、ごめんなさい」っていう人がいっぱいいるんですけどね。人生の時間を1時間2時間使ってね、ほかのことだってできるのに、わざわざ足を運んできてくださったこと自体が、私たちにとって幸せですよね。
またゆっくり、私の話をマリアさんに聞いてもらって、ヨシヨシしてもらいたいなって(笑)。さっき連絡くださいって言ってた、第1号に予約しましたの(笑)。ありがとうございました。

マリア:次はSちゃん。Sちゃんは私が引越してきていちばん支えてくれた方です。何も分からない生活のことひとつひとつね、エレベーターで会うたびに教えてくれて。エレベーターで会うんですよね、不思議なくらい。神様は合わせてくれるんですね。チーム☆OKのことも教えてくれたり。今ここで、みなさんに集まってもらえてる原点はSちゃんのような気がしています。ありがとうございます。

Sさん:引越しされてきたときに、マリアの可愛いふたりの娘さんが、うちの子と同じ年だったのもあって、徐々にお付合いできるようになったと思うのですけど。
最初から印象が、いい香りのする、キラキラした方だなって感じで。でも最初来たときは寂しそうにも見えたし、だから当初は近づきすぎるのも…ってちょっと思ったりとか。でも今こんな風に、こうしていられる出会いがあって。

私も母子避難でたくさんの仲間がいて、とても充実した日々を過ごしてきて、自分は幸せだと思えていたけれど、それでもやっぱりつらくて。やっぱり家族一緒がよくて。
そんなときにマリアさんが言ってくれる言葉にすごく救われました。
母親としてだけじゃなくて、自分を大事に、自分を愛せばいいって言ってくれたんですよね。で、自分を癒やすことも教えてくれた。

母子生活が長期化してつらいなって思うときもまだまだあるんだけれども、それでもマリアさんと出会えたことで、すごく心が豊かになれて、本当に感謝しています。
娘も、充実した毎日を送れてるんですよね。大好きなお友達ができて。これも、とっても恵まれた場所に来れたんだなって思ってます。そういう、こちらに来てからのお付き合いがあって、写真を見てお話を聞くと、悲しくてつらかっただろうなって。お子さんの小さい写真を見て。だけど、ここに来てくれて、ありがとうございます。すみません、うまく言えないんですけど

終わりに

司会;ありがとうございました。マリアさん出会ってくれて、ありがとうって私も思います。本当に感謝してます。最後に聞き手のSさんから終わりの言葉を。

聞き手:聞き手冥利につきるな、と思いました。この年になって、母親になって、こんなに自分の気持ちが満たされていくことを感じられるのが、幸せで幸せでっていう毎日でした。なので皆さん、ぜひ1度、聞き取りをしてみてください(笑)。いつでもバトンを渡すつもりでおりますので。(一同爆笑)
本当に忙しかったですけど、家族が協力してくれて。私、生き生きしていたと思います。
マリアさんのメッセージをみなさんに伝えたいってことと、出会えた奇跡が本当にありがたいなって思ったんですよね。
3月11日からのマリアさんのお話を聞くと、自分はあの時こうだったなって自分をを重ねて聞けるんですよね。その中で「ああ、そういう風に答えを出せたんだ」って思うと、すっと楽になれたり。
「私あのときそう考えたのは、間違いじゃなかったんだ」とか、そうやってすり合わせていける幸せって、この立場でないと感じることできないんじゃないかなって、感謝でいっぱいです。本当にありがとうございました。

司会:今日はありがとうございました。最後に、マリアさんと聞き手のSさんに、ありがとうございました、と拍手を送りたいと思います。

全員:マリアさん、Sさん、ありがとうございました。(拍手)

【注釈】
※あったかい道ハウス:「ようこそあったかい道」という支援団体が運営していた一時保養施設。現在閉鎖中。

※湊源道さん:「ようこそあったかい道」を中心になって起ち上げた湊源道氏。株式会社ルーツ・オブ・ジャパン代表取締役。避難者支援に力を注いでくださっています。

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