【裁判】損害賠償請求、原告の「意見陳述書」をご紹介します

「どなたか、私の問いに答えてください。
人が人として最低限尊重されねばならないことが、おろそかにされるのはなぜですか。


子どもたちという弱き存在を守りたいという気持ちが、切り捨てられるのはなぜですか。」

1月27日に札幌地裁で読み上げられた、都築啓子さん(福島県白河市から避難)の「意見陳述書」です。
ご本人の了解のもと、ご紹介します。
どうぞ皆さん、拡散して、応援してください!

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平成25年(ワ)1879号
損害賠償請求事件
原 告  原告番号1の1 外 69名
被 告  国、東京電力株式会社
意 見 陳 述
札幌地方裁判所 民事第1部 合議係御中
平平成26年1月27日
原告番号 18の2

1 2011年7月21日、震災、そしてあの原発事故から約4カ月余りが過ぎたこの日、私は、子ども二人と、数日間だけの付添の主人と一緒に、14年暮らした福島の自宅を出ました。
隣に住む私の両親が見送りに出て来てくれましたが、「いってきます」というのがせいいっぱいで、何も言葉になりませんでした。
引っ越すわけでもない。自宅はそこにあるのに、次はいつまたここに戻れるのかもわからない。なぜ、こんなことになってしまったのか、と、悔しい思いと、離れがたい思いで、心が揺れました。
流れ落ちそうになる涙をこらえるために上を向けば、そこには以前と何ら変わりのない空。でも、決定的に変わってしまったことはわかっていました。
原発事故のせいで、もう、そこで私たちはそれまで通り心穏やかに暮らすことが出来ない、と気付いてしまっていたからです。

2 私も、主人も、東京生まれの東京育ちです。
1995年に、山が大好きな私の両親が、那須連峰を一望できる福島県白河市を終の棲家として選び、東京から移住しました。
そこに遊びに行くうち、福島の自然の豊かさと美しさ、食べ物のおいしさ、そして、人の温かさに惹かれ、2年後の1997年、私たち夫婦も東京での持ち家を手放し、仕事を辞めて白河市へ移住を決めました。心底、その土地に惚れこんでの移住でした。
子どもたちは、2人とも、福島生まれです。娘は13歳まで、息子は11歳まで、福島で育ちました。福島が、彼らの故郷です。今もまだ、大好きな祖父母と父親が暮らす、大事な、大事なふるさとです。その場所から、子どもたちを連れて出ることは、身を割かれるようにつらいことでした。

3 白河市は、福島第一原発から約80キロ、国からの避難指示などは何も出ていない場所です。
原発事故が起きた後、聞こえてくるのは、ここは大丈夫、心配ない、問題ない、そんな言葉ばかりでした。あれだけの大きな事故が起きたのに、必死になって何もなかったかのようにふるまう、そんな周囲の状況に強く違和感を覚えました。
事故から数日後の県立高校の合格発表の日、雪が降る中、例年通りに屋外での合格発表が行われたことは、大変ショックでした。当時、英語教室を経営していた私に出来たことは、教え子の受験生3名に「見にいかないで、電話で問い合わせをしなさい」と伝えることくらいでした。大人として自分の無力さに情けなくなると同時に、子どもたちを守ろうとしない行政への怒りを強く感じました。
子どもたちが通う学校も同じでした。4月の新学年がはじまる前に、なんとかして学校の校庭だけでも表土をはがすことは出来ないだろうかと、直談判に行ったこともありました。部活動で外を走らせないでほしいと、お願いしたこともありました。しかし、子どもたちにとって普段通りにするのが一番だ、と繰り返す学校側とは、なかなか距離が縮まりませんでした。
それなのに、学校がはじまると、子どもたちは学校から、マスク、長そで、長ズボンでの登下校を指示されました。毎朝、その後ろ姿を見送る時、なぜ、普段どおりの姿で登下校出来ない場所で、普段どおりに生活させようとするのだろうかという疑念があふれ、そんな状態でも、我が子を学校に行かせていることが申し訳なくて、涙があふれました。

4 私は白河市の自宅で、11年間英語教室を経営していました。下は3歳から上は60代まで40名ほどの生徒に英語を教える日々でした。中でも、半分以上を占めていた小中学生とは、毎日、長い時間を一緒に過ごしました。
震災後、久しぶりに再開した教室に集まって来た生徒たちの話題は、地震のことと原発のことでした。ある日、中学2年生の女の子たちがこんな会話をしていました。「私たち、もしかしたら、結婚できないかもしれないよね」「子どもも産めないかもしれないね」
また、他の生徒は、学校の給食に出される牛乳を飲みたくないと言ったら、友達から「自分だけ生き残ろうとするなんてずるい」と言われたと聞きました。子どもたちは何の罪もないのに、こうして対立しあい、ぶつかり、溝が出来ます。そして、自分たちの将来を思って不安になり、小さな胸を痛めるのです。
これは大人も同様です。学校の保護者の間でも、原発の話や放射能の話は、なかなか話題に出来ない雰囲気でした。みんな、心の中では心配だけど、それを口に出して言えるような状況ではありませんでした。友人知人には、農業を営んでいるご家族や、食べ物を扱う商売をしている方々もいました。そういう方々が原発事故でどれだけの打撃を受けているのか、それを思えば、汚染食材が怖いとか、給食が不安だとか、簡単に口にすることはできません。避難を決め、土地を去る人達は、ただひっそりと、いつのまにかいなくなっている、そんな状況でした。

5 5月に入り、除染もされない校庭で運動会をすると決まり、納得できず、校長先生に、なぜ今、運動会をするのか、という問いをぶつけてみました。すると、こんな答えが返って来ました。「今やらないと、基準値が戻ってしまったら、運動会ができなくなってしまう。もし、今、20ミリシーベルトの基準はやめて、原発事故前の1ミリシーベルトの基準に戻しましょうと言われたら、明日の運動会は中止です」 私はこれを聞いた時、怒りというより、体の力が抜けて行くのを感じました。子どもたちのことを、子どもたちの命を、いったいどう考えているのか。
子どもたちのために普通の生活をさせるのではなく、大人の都合ではないのか。こう感じた時、もう、ここで子どもたちを安心して育てることは出来ないと思いました。これが、私に避難を決意させた瞬間でした。

6 原発事故は、あの時、確かに起きてしまいました。そして、2年10カ月たった今も、まったく収束していません。爆発した原子炉からは気が遠くなるほど大量の放射性物質が放出され、それは、福島県内にとどまらず広範囲にわたり私たちの大切なふるさとの土地を空気を水を汚染しました。目に見えず匂いも無く、存在するかどうかを実感するのが難しいその物質は、人々の心にも影を落としました。
怖いから、不安だから、と、土地を離れて行こうとする者たちは「裏切り者。故郷を捨てるのか」と言われ、また、反対に、その場所に留まってどうにか頑張ろうとする者たちは、まるで子どもたちのことを思っていないかのように言われ、ひとつにまとまっていた人々が分断されていくのです。

7 避難した先でも、将来が見えない生活に日々不安を抱えて暮らし、避難という非日常の中で、毎日の生活という日常を強いられます。今もまだ家族がバラバラという人達も少なくありません。避難せずに留まった方々も、錯綜する情報に翻弄され、周囲に不安な気持ちを言えないまま、それでも出来ることを、と必死で平静を保つ努力を続け、子どもたちの身を、そして我が身を守るために防御をし続けるのです。
これは、福島県のことだけではありません。隣接している県から関東まで広く汚染されているということは、事実です。その中で、原発事故以降、自分がとって来た行動を思い出すたびに、後悔し、子供たちの寝顔に涙を流しながら謝った経験のある親御さんは、少なくないだろうと思います。
そして、その場所を離れるにしても留まるにしても、大きな喪失感とともに生きて行くことになるのです。

8 そんな私たちの気持ちを逆なでするかのように、「事故による汚染はブロックされている」と大大的に演説をしてしまうような、日本の政府、そして、当然のように私たちの税金から巨額な借り入れをしようとする東電。こんな、非人間的な行為が許されてしまうことが、まったく信じられません。

9 前を向いて進むということは、過去をなかったことにすることではありません。何が起きたのか、そしてそれによって、これからどうなって行くのかを、しっかり見つめ考えてこそ、私たちは前に進んで行けるのです。私たちは、安心させてほしいわけではありません。本当のことが知りたいのです。安全でないものを安全だと言われるのではなく、安全ではないなら、そう言って欲しいのです。でも、今まで私たちのそういった要求に真摯に答えてくれていたでしょうか。答えは、確実に、「ノー」です。

10 どなたか、私の問いに答えてください。 人が人として最低限尊重されねばならないことが、おろそかにされるのはなぜですか。子どもたちという弱き存在を守りたいという気持ちが、切り捨てられるのはなぜですか。人災であるといいながら、誰も裁かれないのはなぜですか。原発事故が起きたのは、私たち一般市民が無知で無関心だったからですか?事故は私たちの責任ですか?
この裁判によって、金銭的な補償はもちろんのことですが、今回の事故の責任の所在を明らかにし、私たち被災者全員が強制的に奪われてしまった、人としての存在意義や、日々、幸せに、そして、健康に生きる権利を回復する足掛かりとなっていくことを、心から願ってやみません。

11 最後に、避難当時中学2年だった、私の娘が言った言葉を聞いて下さい。
「将来、私たちの避難は必要なかったね、って笑える日がくるならまだいい。でも、もし、私たち、避難して本当に良かったよね、なんて言う日が来たら、私は、自分だけ笑うことなんて絶対に出来ない」
13歳の少女が何を想って語った言葉か想像してみてください。そして、心に刻んでいただきたいと思います。

以上