【手記】「だから…もう自分を責めないでほしい。」~宮城県から札幌に原発避難した大学生の、親への想い~

「だから、自信を持って、堂々としていて欲しい…もう自分を責めないでほしい。」
~宮城県仙台市から札幌に原発避難した大学生ユウさんの、親への想い~

チーム☆OK唯一の大学生メンバー、ユウさんが、親御さんへの想いを綴ってくれました。
ユウさんは母子避難。避難のために、北海道の大学を選び、母子で避難して来たそうです。
なかなか語られることのない、「母子避難で連れてこられた子ども」の想いです。

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野球は中学校から始めたスポーツだ。そのまま進学した高校でも硬式野球部に所属し、当時は甲子園優勝を目指して、毎日練習に励んでいた。
練習は厳しく、大変ではあったが、気の置けない仲間たちと過ごす時間は、充実したものであった。

そんな時であった。東日本大震災がおきたのは。

練習中でグラウンドにいた。突然の揺れ、それが5分以上続いた。すぐに練習は中止され、帰れる者から家路についた。
私は、コンクリートが割れ、水が噴き出す道路に自転車を走らせ、何とか帰宅した。
その後1週間ほどは、毎日自転車で、食料を探す生活だった。

しかしそんな生活も、1~2週間もすればおさまり、復興も進み、元の生活に少しずつ戻っていった。野球部の練習も再開され、いつもの日常が再開しようとしていた。

そんな時、母が突然、意味の分からない、頭のおかしなことを言い出した。
「福島で原発が爆発し、放射線が広範囲に広がっているから、あまり外にでるな」というのだ。
TVや新聞から、福島で原発事故が起こっていることは知っていたが、政府も安全だと言っており、問題はないと思っていた。どこか遠い、自分とは関係ないところで起きたことだと思っていた。

それなのに、母は外に出るなという。冗談じゃない。明日も明後日も練習があるのだ。
それに、部活の仲間も、監督も、誰も気にしてはいないじゃないか。当然の如く反発。割と強めに言ってやった。これでもう変なことは言ってこないだろう。

しかし、次の日も、そのまた次の日も、母は何度も何度も何度も何度も何度も、私に、「放射能が漏れているから外に出るな、マスクをしろ、食べ物に気を付けろ」と言い続けた。

ああもう、うるさい、私には野球の練習があるのだ。邪魔をするな。
誰一人として気にしていないのに、一人で何を騒いでいるのだ。
そのたびに強く反発し、時には声を荒げたこともあった。
そんな日々が、何か月も続いた。汚染の高い地域への遠征も強行した。
グラウンドを走り回り、野球に打ち込んだ。

頼むから、やっと戻った平和な生活を壊さないでくれ、周りのみんなと一緒に、普通の生活をさせてくれ。
そんなことをいつも考えていた。しかし、母が私に対して、無言になることはなかった。

きっかけはいつだったのか、事故から何か月経ったときだったのか。もう覚えてはいない。
そこまで言うのなら、一度話を「聞いてやろう」ではないか、そんな気持ちではあるが、母の話を正面から受け止めようと思った。
薄々感じてはいたのだ、私はただ、逃げていただけだということを、母の話から。
圧倒的大多数の周囲の人間の影に、隠れていただけだということを。
それに気づくことが出来たのは、母が私に何を言われても、怯むことなく放射能のことを言い続けたからだろう。

ともかく、母の話をじっくり聞いたあとは、自然と放射能のことを認めるようになっていた。
チェルノブイリの話も聞かされたし、放射能の怖さも、懇切丁寧に説明してくれた。
今までの日常は、もう戻ってこないという現実を、受け止めざるを得なかった。
少しでも目を背けようとすれば、母がすかさず現実を突きつけてきた。反発する気力は、もう残っていなかった。

「避難をしよう」。とうとう母は、私が最も恐れていたことを言い出した。
正直それだけは嫌だった。時は高校2年生。後輩もできて、最高に充実していた時だった。
私は母に、避難はもう少し待ってほしいと、「お願い」した。
結果、私が北海道の大学に進学するということで、野球を続けることを「許して」くれた。

私は最後まで野球部に所属し、春の大会で県ベスト8までいくことが出来た。
夏の甲子園予選では敗退してしまったが、最後は最高の仲間と一緒に、笑って引退することが出来た。
一つのことに打ち込むことの意味を学んだ。礼儀や挨拶の大切さを知った。両親が最後まで野球をやらせてくれたおかげだ。本当に感謝している。

そんなわけで、最後まで野球をやらせて貰った私には、ある約束が残されていた。北海道の大学に行くことである。そして、受験勉強をしながら、今度は私が、周りの人たちに、放射能のことを伝える番だと思った。

しかし、現実は厳しかった。結局誰にも、理解はしてもらえなかったのだ。
特に、3年間共に野球に打ち込んだ仲間にも拒絶されたことは、流石にショックだった。
この辺の気持ちは、避難者の方ならわかると思う。この時初めて、母の気持ちを知ることが出来たのだ。

言う方も辛いのである。
何故なら、被災地で放射能の怖さを認めるということは、今この瞬間も、自分の身体が被爆しているということを、認めるということだからである。
しかし、だからこそ、相手の為を思って言うのであるが、結局変人扱いされ、笑われ、拒否される。
いつしか、放射能のことを周りに言うことを避けるようになった。自分が傷つくくらいなら、言わない方がいい。と言う訳だ。
ここまで傷ついてもなお、言い続けるためには、本気で相手のことを思っていないと出来ないことだと思う。
母はこんな環境で毎日戦っていたのだ。私と妹の為に・・・。

まだ北海道にはたくさんの雪が残っている3月。
私たちは、札幌に避難した。地元に父を残して。ここで、2千字以上書いてからようやく登場した父についても触れよう。
私たち家族の避難を認め、汚染地に残って今も働き続ける父だ。
何度も言うが、被災地において放射能の怖さを認めることは、並大抵のことではない。ましてや、「家族が避難することを認める」というのは、「自らも被爆していることを認める」ということでもある。
勿論、最初から避難を認めていたわけではない。最初のころは、母と揉めることもかなりあったように思える。
しかし最後は、私たちを笑顔で送りだしてくれた。今も、被災地に残って、仕事を続けている。私たちの生活を守るために。
父もまた、放射能の恐怖と、戦っているのだ。

以上が、私が避難してきた大体の顛末である。
何度も何度も揉めたが、今の札幌での暮らしを作ってくれた両親には、心から感謝している。
確かに多くのものを失ったが、かわりに札幌の新しい出会いもたくさんあった。
これから、北海道での思い出をたくさん作ることが出来れば、それでよいと思う。

子供は親の背中を見て育つという。本当にその通りだ。
私も、両親の様に、どんな時でも子供のためを想い、子供の命を守るために全力を尽くせる、そんな親になりたいと考えている。自分がどんなに傷ついても、最後まで子供の為に行動する。そんな親に・・・。

北海道に母子避難してきた小さな子供たち、「いのちのことり」風にいうと、「守られた輝く命」たちも、きっと私と同じ気持ちのはずだ。例え今は、わからなかったとしても、いつか成長したときに、両親に対して感謝する時が必ず来る。私はそう信じている。
だから、自信を持って、堂々としていて欲しい。
これはチーム☆OKだけでなく、原発避難してきた全ての親たちに、私がこの文章を通して、一番伝えたいことだ。
「守られた輝く命」としての言葉だ。

大丈夫、あなたたちが、わたしたちのためを思って、多くのものを失い、苦しみ傷つき、それでも避難を決意し、今もなお、本当にこれでよかったのかと自問自答を繰り返していることは、ちゃんとわかっている。
その背中から、日々感じ取っている。
だから、もう自分を責めないでほしい。

そして、沢山の、笑顔の思い出を、避難先で作って欲しい、一緒に笑って過ごして欲しい。
あなたたちの笑っている顔を、わたしたちも見たいから。

「ありがとう」。今はまだ、恥ずかしくて言えないけれど、大きくなったら、きっと伝えます。
私たちの命を守ってくれた、大切な人たちに・・・。

(ユウ・大学2年生・宮城県から原発避難)