【裁判】「最低限の生活を維持するために、ほとんどの財産を捨てました」~6/3原発裁判での意見陳述~

「何も考えず娘の将来だけを考えようと自分に言い聞かせました」


「最低限の生活を維持するために、ほとんどの財産を捨てました」
「人として間違った道を歩む国と東電に対して、大人が言わなければ誰が言うのでしょうか?」・・・

6/3の裁判での意見陳述の内容を、ご本人が公開しています。
その勇気に、同じ原発避難者として、深く御礼申し上げたいです。

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(ご本人のフェイスブック・ページより、ご本人の許可を得て転載します)

拡散、シェア希望。
集団訴訟での私自身の意見陳述をご紹介させていただきます。
内容についてはありのままにお話しています。
誤解のないようにお願いしたいのですが、学校や福島の方々を非難するためのものでは決してありません。
なぜ私たちがこのような体験をしなければならなかったのかを考えていただけたらと思います。

〈意見陳述〉

みなさん、こんにちは。
私は福島県中通りの鏡石町から北海道札幌市に家族で避難したものです。

私が避難を決断したのは娘の身体に異変が起きたからでした。
福島で原発事故が起き、その直後の4月から学校へ行き出した当時中学3年の娘の顔中に今まで見たこともないような赤い発疹が出て、更にとびひの様になり、母親の私は驚いて病院へ連れて行きました。医師から「これはとびひではない。」と診断され、後になって
チェルノブイリの症例で皮膚が弱い人に虫刺されのような症状が
出ていたと知り愕然としました。
学校に電話をかけて放射能の被害が心配だから地産地消の給食と
屋外での活動をやめてほしいとお願いしましたが、
学校と教育委員会をたらい回しにされやっと話を聞いてもらえた時、校長先生から「国が安全と言っているのでまったく問題ありません。」と説明されました。「アトピーという理由なら」と、何とか了解をもらうのが精一杯でした。

このような環境に子どもを置いておくわけにはいかないと判断し、
娘の健康被害を恐れ事故から3か月後の6月に夫と娘が先に、私は経営していた美容室の自宅兼店舗を閉め、支店へお客様を1ヶ月で引き継ぎ7月に札幌へと移りました。
愛する故郷、15年間かけて軌道に乗せてきた美容室、お客様、
スタッフ、親友、そして両親と突然の別れ。
考えたら避難なんかできない、何も考えず娘の将来だけを考えようと自分に言い聞かせました。
住み慣れた自宅の整理をたった一人でやりながら、子どもたちが幼いころに撮った幸せいっぱいのアルバム写真を眺め、どうして こんなことになってしまったのかな、、、と虚しさでいっぱいになりました。

生まれて初めて訪れた北海道の暮らしは思っていた以上に辛く厳しい現実がありました。
夫は数か月後に仕事が決まったものの給料は月10万円ほど、
私はひとりで一から美容室を始めましたが、当然初めは赤字からのスタートです。

美容室をオープンして1週間目に疲労が重なり全身が硬直して動けなくなり、丸一日寝込み、自信喪失しました。
専門学校に通っていた息子に学費が払えなくなり中途で学校をやめてもらいました。
受験生だった娘は高校受験を控えての転校、どんなにか心細かったでしょう。

私たち家族はお互いに涙を見せないように毎日、隠れて泣いていました。
右も左もわからない札幌での生活は家族が協力しなければとてもやっていけない、慣れない環境で180度変化した生活に、精神的にも肉体的にもぎりぎりの状態でした。

自主的避難等対象区域からの避難のため東電からの補償はなく、激減した収入、貯金を切り崩しながらの生活、持ってきた車を手放し、生命保険を解約して最低限の生活を維持するために、ほとんどの財産を捨てました。
避難してから1年後には残してきた支店もローンの残る自宅も手放しました。

福島に残るスタッフや近所の人との関係もぎくしゃくしていき、
友人や両親とは簡単に合うこともできない、放射能への考え方がお互いの心に溝をつくってしまいました。

私が避難したことに対し地元では「経営が上手くいっていなかったから避難したんだろう。」と噂になっていると聞きショックでした。

あまりの辛さに東電に電話して泣きながら怒鳴り散らしたことも
何度かありましたが、電話の後には相手を傷つけてしまった罪悪感に落ち込みました。

札幌では今動かなければ国や東電に原発事故の被害をもみ消されてしまう、という思いがあり、やったこともないラジオやテレビ取材を受け、避難体験を話すイベントなど自分がやれることは全て受けました。デモも行きました。
東電への訴訟や原発告訴団へも加わりました。生活もままならない中、無我夢中で動いていました。

なぜ、私たちはこんな思いをしなければならなかったのかと怒りと悲しみで苦しくて毎日毎日、眠れない夜が続きました。
笑っていないと今にも崩れていきそうで、人の前では笑って心の中で泣いていました。

避難してから2年半が過ぎ、何とか生活も落ち着き、やっと少し心から笑えるようになってきましたが、それでも福島の時のように安定した生活を取り戻すことは年齢的にももう無理だと思います。

私には国や東電に対する強い不信感があります。
子どもの甲状腺検査にしても国の対応があまりにも遅いため、自費で検査をしましたが1年前に検査した時よりも甲状腺ののう胞が増えていたこともあり、医師は大丈夫と言いますが私は全く安心できません。

最近では避難した当初は話を聞いてくれた札幌の人たちもメディアで報道されないせいか、もう原発は落ち着いたと思っている人、そんな話はもう3年も経つし聞きたくないという「言えない雰囲気」が漂ってきました。
私は本当の被害はこれから出てくるのではないかと危惧しています。

母子避難者である友人の中には私の知り合いだけで4人も離婚した人がいます。
やはり放射能に対する考え方の違いでずっと家族がぶつかってきた結果、選択せざるをえなかったのでしょうが、どれだけの苦しみをみんなが味わってきたのだろうかと想像します。

しかし、私はもう泣かないと決めました。
悲しみや怒りの感情は自分自身の細胞を傷つけ、負の感情は大切な家族や周りの人をも傷つけてしまいます。
何のために避難したのか、我が子を守るために避難したのだから病気になったのでは意味がない。
泣いて暮らすことよりも動くことが大事、笑って動くしかない、と苦しみぬいた時間から答えをもらいました。
私が強くなれたのはある意味、この体験があったからだと思います。

だからと言って、私たちの平穏な生活を奪い、
原発事故の被害を隠蔽し、子どもたちを被爆させ続ける
国と東電に対して許すことはできません。
人として間違った道を歩む国と東電に対して、大人が言わなければ誰が言うのでしょうか?

(以上)